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晴れやかな秋の空と穏やかな風。そして、いつもと変わらぬ平和な時間。今日はいいことが起きそうだ。なんて考えていたら、本当にそれが起きた。
「やったわね、片瀬さん」
佐々木に満面の笑みで迎えられた放課後の美術室。差し出された封書に流風はまず驚き、おずおずと手を伸ばしてそれを受け取る。中身を確認したのち、じわじわと広がっていく喜びに鼻の奥がツンとして、目を何度も瞬いた。
「優秀賞、おめでとう。やっぱりSJグループが主催するコンクールを選んで正解だったわ。若手登竜門の一つであることはもちろんだけど、あそこの会長は若い才能を大事にしてくださる方でね、審査員もその意向に沿った目で審査をなさるから、片瀬さんはきっと評価してもらえると思っていたの。よかったわね、片瀬さん」
「は、はい。ありがとうございます」
夏の終わりに提出した絵画コンクールの審査結果が入った封書を胸に抱きしめて、流風ははにかんだ。いわれるがままに提出したが、結果が出るとやはり嬉しい。いや、すごく嬉しい。
「片瀬さん、すごいよ!おめでとう!」
「ほんとほんと!初めてのコンクールでいきなりの優秀賞なんて、そうそうないんじゃない?」
「そうだよね。しかもSJコンクールだよ?絵画に興味のない人だって知ってる大きなコンクールで、もうそれ、快挙でしょ」
わっと部員のみんなが流風の周りに集まった。流風はありがとうと返すのが精一杯。でも彼らの気持ちに嘘はなく、それを感じるから、流風は心から嬉しくなる。
「はいはい、みんな落ち着いて。片瀬さんが困ってるでしょ。それに発表はまだ終わってないわよ」
佐々木がぱんぱんと手を打ち、みんなの注目を集める。
「もう一人、優秀賞の方がいます。鮎川さん、おめでとう」
花乃子の名が呼ばれ、流風と同じ封書が渡された。それを花乃子は堂々と手にすると、くるりと振り返った。
「優秀賞、いただきました」
ふふふと笑う花乃子に部員のみなは、やっぱりねー。と頷く。
「さすが花乃子、落ち着きはらってるわ。まあでも、受賞は当然って感じ?」
「そりゃねえ、サラブレットだもん。驚きはないわあ」
「ですよね!でも私的には最優秀賞じゃなくて悔しいです。絶対に鮎川先輩だと思ってたのに。今回応募した作品、すごかったですよね」
口々に上がる賛辞に花乃子が頬を赤くする。
「そんな、褒めすぎだよ。でも今回は最優秀賞っていう気持ちは私もあったから残念だけど、まだまだ実力が足りないんだと思う」
「もー、花乃子ってほんと謙虚なんだから。まあでもたしかに、なんで最優秀じゃないのって話だよね。佐々木先生もそう思いますよね?」
「そうねえ。ああでも、今回は最優秀賞の受賞者はいなかったみたいね」
佐々木の返答に流風は首をかしげた。
「そういうこともあるんですか?」
「ええ。コンクールはスポーツのような勝負事ではないから、該当者なしということも珍しくないわ。だから今回は、優秀賞の三人が実質上の最高評価になるわね。その三人の内の二人が我が美術部員だなんて、もう奇跡じゃないかしら。私も鼻が高いわ。今日は祝杯ね」
「やったー。アイスが食べたいです」
「私はプリン!」
「どうしてそうなるのかしら。まったく仕方のない子たちね。まあいいわ。たまにはご馳走してあげましょう。そうね、購買で売ってるアイスとプリン、食べたいほうを選択しなさい。部長、お願いしても?」
「もちろんです!じゃあまずは、アイスの人、手を上げて!次はプリンね!はいはい、そこ慌てない!」
佐々木の了承に歓声を上げながら、部員らが嬉々として手を上げる。部長の視線が流風にも向いたので、アイスに手を上げさせてもらった。購買のアイスは一種類しかないが、ミルクが濃厚でとても美味しいのだ。プリンは食べたことがない。理由は慎吾と作るあのプリンが一番好きだから。
「片瀬さんもアイスにしたんだ。私も。これ、美味しいよね」
アイスを片手に隣に座ってきたのは花乃子だ。流風が頷くと、花乃子は笑んだ。
「あらためてだけど、優秀賞おめでとう」
花乃子のお祝いに流風は姿勢を正した。
「ありがとう。鮎川さんもおめでとう。最優秀賞、残念だったね」
「ああ、うん。たしかに残念ではあるけど、でも大丈夫だよ。今回は該当者なしだっていうし、負けたわけじゃないから」
にこりと笑う花乃子にわずかな違和感。先ほど佐々木がいっていた、コンクールは勝負事じゃないという言葉が頭に浮かぶ。けど流風は「そっか」という程度に留めた。余計なことはいわない。思っても感じてもいわない。それが流風の中のルール。美味しいはずのアイスが、どろりと濁ったことにも知らないふりをした。
その後もなんとなく心が浮かなくて、部活を終えて美術室を出たのは一番最後。けど、どこか晴れない気持ちが浮上する出来事が起きた。
「片瀬さん」
昇降口を出たところで呼び止められた流風は、目をまたたいた。
「松下さん?」
とっくに帰ったと思っていた松下楓が流風に近寄ってきた。
「あのさ」
楓はいいにくそうに視線を下げると、なにかをつぶやいた。
「え?あの、ごめんなさい。よく聞こえなかったんだけど」
「だから、ええと」
「松下さん?」
「お、おめでとうっていったのっ。優秀賞、よかったねっ、……て」
流風はぽかんとしたまま楓を見つめる。
「な、なによ。私だってお祝いぐらいいうし」
「あ、うん。そっか。あの、ありがとう」
「本当にすごいよ。今日はステーキじゃない?あ、すき焼きもありか」
「えっと」
真面目な顔で頷いている楓。ステーキにすき焼き。たしかに特別感はある。楓の家ではきっとそうなのだろう。そこで流風はそっか、そうだよねと思う。花乃子の発言で気持ちが沈んでいたが、今日は本当に嬉しい日で、思いきり喜んでいい日で、それを楽しんでいい日なのだ。そう、豪華な夕食を食べたっていい。そう考えたら急に元気が出て、そのきっかけをくれた楓にお礼がいいたくて、流風は知らず前のめりになってしまった。
「あのっ、松下さん、本当にありがとう!」
急にテンションを上げてきた流風に、今度は楓が目を丸くする。そして小さく吹き出した。
「片瀬さんでも、そんな大声が出るんだ」
「あ。ごめんなさい。急に。その、つい嬉しくて」
しょんぼりする流風に、楓は笑いながら首をかしげた。
「なんで謝るのよ。いいじゃない、テンション高い片瀬さん。私は好きだけど? まあその調子で、自分の意見いいたいときは口にしてみれば? 飲み込んでばかりいると、そのうち損しゃちゃうよ?」
驚いたように流風が視線を上げると、そこには楓の優しい瞳があった。楓のことは、きつい性格だと思っていた。ずっと苦手だった。人の善悪は風が教えてくれる。それは本当だけど、話してみなければわからないこともあるのだと、いま知った。楓はきつい部分もあるが、それは実直であるがゆえ。つまり嘘のない人間なのだ。
流風はこれまで、自ら人を理解するための努力をしたことがなかった。怖さが先立ち、いつも目をそらしていた。それが楽だったから。けど、それだけじゃだめなんだ。いつまでも護ってもらってばかりじゃ。
「ありがとう、松下さん。これからは頑張ってみるね。松下さんのように意見をいえるようになる」
両手を握ってガッツポーズをする流風に、楓はまたもや吹き出した。
「ちょっ、片瀬さんウケるんだけど。やめて。なんでそんなに可愛いのよ。だいたい私を目指しちゃだめだって。私がきついの知ってるでしょ。周りからもそう思われてるし。前に片瀬さんにも、きついこといっちゃったしね。あのときはごめん」
流風はすぐになんのことか気づいた。コンクールに出さなきゃいい。そういわれたときのことだ。流風は首を横に振った。
「ううん。あれは松下さんのいうとおりだった。実際、出したくないって気持ちが強かったし。いえない自分を不甲斐なく思ってたの。いわれてドキリとしたのは本当」
「そっか。でも、やっぱりきつくいいすぎたと思う。じつはずっと気になってて、謝らないとって思ってた。まあ、いまさらなんだけど、ほんとごめんね」
「そんな、謝らないで。それに謝ることなら私にもあるよ。松下さんのこと、きつくて怖いなって。そういう人は苦手だなって思ってた。よく知りもしないで失礼だった。ごめんなさい。これで、お互い樣だよね?」
「……なるほど」
楓の神妙な顔に流風ははっとした。ストレートにいいすぎたようだ。
「ご、ごめんね?言い方が悪かったかも。きついじゃなくて、ええと、そう!はっきりしてる?感じ?怖いのは、ちょっと本当かもだけど。ええと、苦手じゃなくて、近寄りがたいっていうか? ほら、松下さんってクール美人?だから」
「……クール美人」
楓がなにかを考えるように下を向く。その様子に青くなった流風だが、次の瞬間、楓が肩を震わせながら笑いだした。
「もー、なんなの、やめて。ほんと、おもしろすぎるんだけど。なんでフォローが全部、疑問形なのよ。だいたいなんでクール美人。いや、疑問形だったけど。しかも怖いのは本当とか、さらりと毒も混じってるし。ねえ、片瀬さんさ、笑わせにきてるでしょ。絶対にそうでしょ。もうさあ……ぷっ、ああ、お腹いたいぃ」
なんて1人笑い転げて、ようやく落ち着いたのか、楓は涙をぬぐいながら流風に視線を向けた。
「あー、笑ったわ。ごめんごめん。でもさ、よく知りもしないでっていうのは私も一緒だよ。片瀬さんが、こういうタイプだなんて知らなかった。なんか本当に好きになっちゃったかも」
「えっと」
「もちろん人としてだよ。私の恋愛対象は男だから」
悪戯っぽく笑う楓はやはりクールな美人。黒髪ストレートがよく似合っている。
「これからはさ、もっと話そうよ」
楓からの提案に流風は考える前に頷いていた。そんな自分に自分で驚く。楓がにっこりと笑った。
「よかった。じゃあまた明日、美術室で」
「うん。また明日。あ、あの、松下さん。ありがとう。お祝いのために、わざわざ待っててくれて」
「いいよ、そんなの。私がそうしたかっただけだから。ああそれと、楓でいいよ。名字とか面倒じゃない?私も流風って呼ぶから。だめならそういって」
楓はどこまでもはっきりした人間で、流風はそれに応えるように迷いなく頷いた。手を振って帰っていく楓の背中を見送りながら、流風は自分の胸に手をあてた。
「もしかして、友だち、できた……?」
知らず紅潮していた流風の頬を、優しい風がふわりとなでていった。
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