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 投げたコーヒーカップは、流風が狙ったとおりに命中してくれた。そう、立っていた男性のぎりぎり横をすり抜けて、その後方にいた男に。 「うわっ!」  その男はよろりとかがみこんだ。当たった場所は肩。当たり具合がよかったのか、男は肩を押さえて痛みに呻いている。いまだ。流風は叫ぼうとした。危機を知らせるために。けどその前に、大きな手に右手首を強く掴まれた。 「なにしてるっ」  掴んできたのは先ほど目が合った男性。その人は困惑した表情ながらも、流風を素早く拘束した。立っていた男性も驚いたのだろう、流風を凝視している。周囲も突然のことに目をまたたき、数秒ロビーは静まり返った。  違う。そうじゃない。そうじゃないのに。 「君は、なにをしたかわかっているのか」  真上から見下ろしてくる男性の厳しい視線は美しくも迫力があって、流風は焦った。早く状況を説明しなければ。けど焦るあまり、上手く言葉を紡ぐことができない。 「ち、違うんですっ。だからっ」  流風はおろおろしながら、男性からカップを投げつけた男へと視線を向け、はっとした。うずくまっていた男が、ゆらりと立ち上がったからだ。いやな風が強くなった。流風は総毛立った。 「だめっやめてっ!」  叫んだ流風の視線は男性の後方にくぎづけられ、その視線にいち早く気づいた男性が素早く振り返る。そしてその目を見開いた。  なにごとかと駆け寄ろうとしたホテルのスタッフが唐突にその足を止めた。遅れて周囲から悲鳴があがる。男が手に持っていたサバイバルナイフを振り上げたからだ。それは明かに一人を狙っていた。それは上品なワンピースを着た一人の女性客。 「逃げろっ!」  誰かが叫ぶ。流風は思わずぎゅっと目を閉じた。お願い!と、とっさに祈る。それが通じたのか風が動いた。 「高崎!!」  流風の頭の上で鋭い一喝が飛ぶと同時に、掴まれていた手首が強く引かれた。驚いて目を開けると、目の前には大きな背中。 「専務っ。下がっていてくださいっ!」  またもや悲鳴があがる。そして続く怒号。大きな音が響き、ロビーは騒然となった。そして流風を庇ってくれている大きな背中の向こうに見えたものは、転がったサバイバルナイフ、数人の人間に組み伏せられた男。男は押さえつけられながらも、殺してやるっと叫んでいた。狙われた女性客は茫然とした表情で、床にへたりこんでいる。  警察への通報がされたのか、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。おそらくもう安全だ。けど、いやな風は泥のように重く消えることがない。それは、いまだ男の周りで渦巻いている。それほどの怒り。深い恨み。男を強行に走らせたもの。 「大丈夫か?」  広い背中が大きく息をつき、流風を振り返った。男性は掴んでいた流風の手首からようやく力を抜くと、その顔を後悔でゆがめた。 「……くそ。赤くなっている」  言葉のとおり、流風の手首は赤くなっていた。男性はうなだれるようにそれを見下ろす。 「本当にすまない」 「え、あの。そんな。えっと大丈夫です」 「そんなわけないだろ。理由をきちんと訊きもせず、手荒な真似をしてしまって悪かった」  理由なんて訊く暇などなかったはずだ。けど男性は自身を責める。流風は思う。この人はきっと高潔な人なのだ。 「……いえ。私も急に行動してしまったので」  流風は男性の大きな手の中から手首をそろりと引き抜くと、左手で隠すように胸元で握り締めながら一歩下がる。すると男性が、じっと流風を見つめてきた。その眼差しがわずかに細められ、流風はどきりとした。 「なぜ君は、」 「専務っ、お怪我はありませんかっ?」  さえぎるように割って入ってきた声に、専務と呼ばれた男性は一瞬目を閉じると、いやそうにため息をついた。 「高崎、おまえな」 「は?」 「いや、なんでもない。それより俺の台詞を取るな。怪我のうんぬんは、おまえのほうだろう。まあ有段持ちのおまえのことだから、もちろん無傷だったんだろ?」 「もちろんです。そんなヘマは致しませんよ」  ナイフを振り上げられた女性客を助けるため、一番先に動いた高崎はにやり笑う。男の拘束をホテルの警備員に任せ、戻ってきた高崎の視線が流風へと向けられた。笑いは消え、わずかに温度を下げたそれは、探るような色。警戒に彩られた眼差し。  流風は目を伏せた。いやな視線。それは流風が嫌いな色合いだ。早く立ち去りたい。けどタイミングがつかめない。無言で立ち去るという無礼ができない流風は、そんな自分を恨めしく思う。 「警察は、ああ、来たようだな」 「あとはホテル側が対処するでしょう。マスコミが現れる前に、我々は失礼するべきかと」 「そうだな。けどその前に」  男性の視線が再度、流風に向けられた。 「君に訊きたいことがある」  それは困る。なにも訊かれたくない。優しい声だが、侮れない響きを感じる。流風は後退りすると、自分のスマホと荷物を手に持った。  警察が到着し、刃物を持った男も外へ連れ出された。だが、いまだロビーは混乱している。この様子は、すぐホテル外にも知られるところになるだろう。早くスマホの電源を入れて連絡をしなくては、大変なことになってしまう。 「あの。私、帰らないと」 「待ってくれ。俺は信条、……そうだ、これを。怪しい者じゃない。俺は信条敦士」  男性が上着の内ポケットから名刺を差し出し、流風の手に握らせた。それを見ていた高崎が、わずかに驚いた顔をする。もちろん流風も驚いた。 「帰るというなら、うちの車に送らせる。だから少し時間をくれないか。手首を赤くさせてしまったお詫びもしたい。君の名前を訊いても?」 「あ、あの」  信条敦士と名乗った男性を相手に、流風はどうすればいいのかさっぱりわからない。自身の持つ性質ゆえに、人が苦手な流風は社交性に乏しい。気兼ねなく話せる相手は、幼いころから知っている相手だけ。  それが初対面の、しかも、どこからみても大人でかっこいい信条を前にして、上手く立ち回れる気など1ミリもしない。そこに天の助けが現れた。 「流風様!」  総支配人の新谷だった。 「お怪我はございませんか?」  流風は思わず新谷へと駆け寄ってしまった。 「はい。私はなにも。それに、こちらの方が庇ってくださったので」 「そうでしたか。信条様が」  新谷はほっとした表情をみせると、信条に向き直った。 「信条様もお怪我はないようですね。ようございました。高崎様が男を取り押さえてくださったとか。おかげさまで、怪我人も出ずに済みました。ありがとうございました。後日あらためて、御礼にうかがわさせていただきます」 「いえ、それにはおよびません。専務のご指示がなければ、私もとっさに動くことはできませんでした。状況判断に長けている専務がいたからこそです」 「いや、今回に限ってはそうじゃない」  信条の否定に、高崎と新谷が怪訝な顔をした。流風だけがじとりと汗をかく。信条の視線を感じる。すごく。流風はうつむいたまま、荷物を胸に抱えた。 「あ、あのっ。新谷さん。私そろそろ」 「ああ、そうでした。桐島様が流風様に連絡がつかないと、ひどくご心配されております」 「紗那ちゃんが?……あ、スマホの電源を切ったままだった。どうしよう」  待ち合わせをしていたことをようやく思い出した流風は、また違う意味で焦った。紗那が慎吾に連絡していないことを祈る。行動の制限はされたくない。 「左様でしたか。では、すぐに電源をお入れしたほうがいいでしょう。この騒ぎですから、今日のご予定はまた後日になさるとのことで、桐島様は篠崎様とご一緒にお車で待たれております。そこまでご案内いたしますので」 「新谷さんが?いいんですか?」  ロビーでは複数の警察官が事情聴取を行っていた。客だけでなく従業員らも動揺しているのだろう、場はいまだ騒然としている。新谷はそれらすべてに対応しなくてはいけない立場だ。そんな流風の気遣いに気がついた新谷が笑んだ。 「大丈夫ですよ。対応できる者は、ほかにもおりますから。もちろん最終的には私が対処いたしますが、流風様をご案内する時間はあります。むしろ、させていただきたいのですが」  新谷に心配されていることがわかり、流風は頷いた。 「わかりました。宜しくお願いします。それじゃ私はこれで」  流風は半分逃げるようにしながら信条に頭を下げた。信条はもう引き止めてはこなかった。けどその眼差しだけは、流風を真っ直ぐに見ていて。そう、真っ直ぐすぎて落ち着かない。流風はそこから逃れるように歩きだそうとしたところで気がついた。そうだった。流風は振り返った。 「あの、先ほどは庇ってくださって、ありがとうございました」  本当は怖かった。すごく怖かったのだ。だから大きな背中が頼もしくて。それにーー。 「いや、当然のことをしたまでだ」  当たり前のようにいう信条はやはり高潔だ。誰もできるとは限らない。流風は視線を上げると信条を数秒だけ見つめたのち、もう一度頭を下げ、なにかを振り切るように踵を返した。 「気のせいだよ……」  新谷の背を追いながら流風は小さくつぶやくと、手の中にある名刺をきゅっと握った。そう気のせいだ。きっとそう。彼の背に守られた瞬間、流風に巻きついてきていた男の嫌な風が途切れたなんて、やはり気のせいに違いない。そう思うのに。 「……違うよ、ね」  そうだ。きっと違う。  人の妄念は強ければ強いほど泥のように濃く、ねっとりと渦巻く風となって流風に巻きつくことがある。それはひどく苦しく、頭痛や吐き気となって流風を苛むのだ。自分ではどうにもならない。どうにかできる人間は、この世に一人しかいない。それは流風のために死ねる人間。そう、慎吾だけにしかできないはずだった。 「気のせいだよ」  流風はもう一度そうつぶやく。これはほかの誰にもできやしない。いや、できてはいけないのだ。なぜなら、流風に巻きつく嫌な風をさえぎる行為は、その人間の命を削る行為となるからだ。 「気のせい……」  流風はそこで唇を噛んだ。本当はわかっている。気のせいじゃないと。大きな背に守られたあの瞬間、いやな風はさえぎられた。確実に流風から離れたのだ。  それを彼は、ーー信条敦士は無意識に行ったのだ。あってはならないことだった。 「しーちゃん、どうしよう……」  流風は声を震わせた。
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