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虚無
晩夏の香りが教室に漂う中、私は窓越しからみえる景色に視線を置いていた。
別に何をみたい訳でもないが、ぼぅっとしたい時はどこか遠くの方に視線を置くのに限る。
窓の向こうでは、校庭を囲うようにして佇む木々が風にそよがれ、揺れ動いた葉が夏のひかりを反射してる。
限りなく透き通らせた青が水平線の先まで支配する空は、絵の達者な神様の一つの作品にすらみえる。
世界はこんなにも綺麗なはずなのに、私の心は波一つ立たず冷えたまま。
ここから景色を眺めるのも、もうニ年になる。
美術系の高校を専攻した私は、この学校の方針や今や名を轟かせる卒業生達の名前に惹かれ、わざわざ県外であるこの高校に入学し、寮生活を送っている。
夢にまでみた高校生活は私の思い描いていたキラキラとしたものとは全く違った。
退屈で、壊れた蛇口から滴る水の如くゆっくりと流れる時間の中で、私は無意味に二酸化炭素を吐き出す。
今、この瞬間も、絶え間なく動き続けている私の肺や心臓は、何の為に動いているのだろう。この世界で生き続ける意味なんて、私にはあるのだろうか。
この数年の間、私の心は、頭は、その疑問の答えをずっと求めている。
こんな私にも、薄い水面を掬い取ったような関係だが、一応何人かの友達はいる。
あと気になる人もいる。一応は。
でも、窓越しに景色を見続けクラスではほとんど目立たない私なんて、彼の視界にすら入ってないだろうと思う。
虚無感。今の私の気持ちを表すならまさにそれだ。
「美咲、今週の課題どんな風になった?みせて!」
ぼぅっとしていた頭を一瞬で目覚めさせるような大きな声に思わず身体をびくりと揺らしてしまう。
「なに…びっくりした!」
「見せてよ、美咲の絵がみたい!!」
私の目の前で溢れんばかりの輝きを目に灯してる彼女は、大橋瑠衣。肩にかかる程度で綺麗に切りそろえられた髪には艶があり、ほんのりと茶色に染められている。大きな目に髪色と同じような茶色の瞳を持ち、彼女の纏う白い肌が余計にそれを際立たせていた。健康的で快活な女の子を頭の中に思い描けと言われたら、私は真っ先に彼女が思い浮かぶだろう。
そして、夏休みが終わったと同時に、ニ週間前に編入してきたばかりの変わり者だ。
この時期に編入してくることも相当変わってるが、三十一人もいるクラスメイトの中で真っ先に私に友達になろうと言ってくるなんて、私が言うのもなんだが本当に変わっていると思う。
「まだ完成してないし、そんな…上手じゃないよ」
私は蚊の鳴くような声でそう呟いた後、いそいそとキャンパスバッグから一枚の絵を取り出し、机の上にそっと置いた。
私が真っ白なキャンパスに描いたのは、木々に囲まれた湖にひっそりと佇む小さなコテージだ。周りの湖面には燃えるような夕焼けが映る、そんなどこにでもあるような絵。先週の課題は『静けさ』だったから、私は子供の頃に家族で訪れたこのコテージを描いた。
「わぁ、凄い…凄い綺麗。やっぱり美咲の絵は凄いよ。才能の塊だよ。」
「そうかな…。でも嬉しいよ、ありがと。」
瑠衣はいつも私の描いた絵を褒めてくれる。彼女の目の輝きや表情をみていると、本心で言ってくれてることは十分に伝わってきた。褒められて悪い気はしない。それに、瑠衣の人懐こい性格に惹かれ、たったニ週間で私は虚無感に覆われた心を少しずつ開き始めていた。
ふっと声が静まった気がして教卓に視線を送ると、既に先生が立っていた。四角い眼鏡がトレードマークで別け隔てなく生徒に接することで生徒からの評判は学年一の白石先生が私達の担任だ。瑠衣はじゃあまた後でと言い残し、席へと戻っていく。
「起立、礼。」という学級委員の掛け声が鼓膜に触れて、一限はなんだっけと椅子に腰をおろしながら記憶を辿る。そして思い出す。私の大嫌いな数学だと。
いくら美術系の学校だとはいっても、一般の高校と同じカリキュラムは勿論ある。
時間割なんていちいち覚えてないが、数学から一限が始まる日は最悪な時間割だったことを思い出し、私は小さくため息を溢した。誰にも聞こえないくらいに、ひっそりと。
そして、またいつものように窓越にみえる景色に視線を置いた。
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