第二話 俺は不真面目な生徒らしい。

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 この学園は本当に広いらしい。  クラスメートの橋村に色々と案内してもらったのだが、たくさんの驚くべき施設があった。  広大なグラウンド場と体育館が部活の個数に応じて存在し、空き教室もかなりある。校舎の各階にトイレと更衣室が設けられているらしい。そして四階は三年生、三階は二年生、二階は一年生、一階はその他の教室が割り当てられている。一階には保健室や職員室、事務室や理事長室などがある。その他にも特別教室などがあるらしい。  寮から校舎ではなく庭園に向かうと、素晴らしい景色の中に包まれた、とても大きな庭園があるという。その庭園は季節によって景色が変わるらしく、空気を味わいながら食事することができるのだとか。この学園には購買があり、それは食堂の隣にあるのだが、購買で買った昼食を庭園に持ち込むことができるらしい。なので雑談したり、散歩したり、昼食をとることにも使える庭園なのだそう。  食堂は無料で豪華な食事を提供してくれる。しかしそれらは定食のようなもので、小腹を満たすために使用するべきではない。そんな時に役立つのが購買なのだ。購買では、小袋に入ったパンやお菓子、それから文房具や生活必需品を無料で提供している。そのため俺達は何不自由なく暮らせるらしいのだ。まぁその分、学費が大変なことになっているのだろうが。そこは両親に頑張ってもらうことにしよう。  そうして俺は一通り橋村に学園について教わった。明日からの期待が膨らむ一方で、しっかり過ごせるのかという不安も残る。それでもポジティブな気持ちの方が勝ったようで、俺は明るい気分であった。  橋村に礼と別れを告げた17時30分頃、俺は寮へと戻る。それから俺の寮室に入って荷物を置き、慌ただしい様子で布団がめくられたままのベッドに腰をかけた。  その瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。まだ二日しか経っていないというのに、俺の体はこの部屋を自室だと認識したのだろうか。胸の中が安心感と幸福感で満たされるのである。  今日も本当に色々なことがあったな、などと1日を振り返りながら、俺はぼうっと天井を見つめた。  ふと、今朝遅刻したことを思い出す。今のうちに目覚まし時計をセットしておいた方が良いな、と考えてベッドから降りる。それから目覚まし時計を手にした。  アラームの設定をしながら起床時間を考える。確か、一限目が9:00からなんだよな。それを踏まえて逆算すると──7:00頃に起きれば良いか。決断を下し、俺はせっせと目覚まし時計を操作した。音が鳴るのかどうかすら確認していないが、まぁ良いだろう。  俺はその後食堂で夕食を食べ、風呂に入り、ぐっすりと眠ったのだった。  憂鬱な気分のまま、夜中の寮を裸足で駆け巡る。息を切らしながらも383号室の前までたどり着き、ぜぇぜぇと荒い息を整えた。この寮室の中には今、とある男が寝ている。起こしてはいけないとわかっているつもりなのだが、どうしても確認したいことがあるのだ。  俺の名前は 鷹野(たかの) 悠樹(ゆうき)という。そして、薔薇染学園の2年A組の生徒だ。俺にはこの世で最も大切な、鷹野 隼斗という名前の双子の兄がいる。そして俺は、鷹野 隼斗を心の奥深くから敬愛している。しかし最近は敬愛の気持ちを伝えることができず、思わずして突き放すような言動を取ってしまっていた。  だから神が見かねたのだろうか。ある時、凶報とも朗報とも言えない事件が兄の隼斗に起こったのである。それはとてつもなく悲しくて、同時にとてつもなく期待してしまうような内容であった。  この383号室には、他でもない隼斗がいる。それも大変なことになってしまった双子の兄が。俺は期待と罪悪感を胸に抱きながら、ゆっくりと耳を澄ませるのだった。  遡ること数時間。俺のクラスであるA組の終礼が終わった後、俺は部活に行くために身支度をしていた。いつもと何も代わり映えしない日常の中、俺は無表情のまま淡々と支度を済ませる。  すると、突然隣のクラスの担任が入ってきたのである。かと思えば大声で、鷹野、と俺を呼び出した。  この教師は皆から吉澤先生と呼ばれている。数学の担当で、ホストのような服を着ている人だ。正直言って俺は得意ではない。人柄が良いことだけは認めるけど。  吉澤先生は大嫌いだ。そのふざけた格好も、言動も、ヘラヘラと面倒そうに笑う姿も何もかも。俺の大切な隼斗に我が物顔で近寄る姿がどうしても許せないのである。無論、色々な奴らが隼斗を我が物顔で手にしているんだけれど。その中でも吉澤先生は教師という立場にいるために、説教できないのが難点だ。俺はぎゅっと奥歯を噛み締める。  しかめっ面をしている俺を見つけて、吉澤先生は不愉快そうに苦笑いする。俺は心の中で舌打ちを一つすると、下手な作り笑いをしながら吉澤先生に近寄った。 「何ですか、先生。」  軽く睨みつけながら問うと、吉澤先生は濃いため息を一つして伝えた。 「超大切な話をするから、職員室までついて来い。」  気だるそうな声でそう言うと、重い足取りでスタスタと歩き始めた。俺は一応生徒であるため逆らう必要すらない。ぐっと拳に力を込めつつ俺は吉澤先生の背を追う。クラスメート達はそんな俺らの様子には一つも目をくれなかった。  廊下に出て、それから一階へと降りる。それから職員室まで辿り着いた。放課後すぐの職員室はいつも生徒で溢れかえっている。理由は様々だ。勉強の質問だったり、雑談だったり、日常的な相談だったり。格別にイケメンな教師に長蛇の列を作る生徒達も、もはや普段通りである。  吉澤先生は見慣れた光景とでも言うように、全て無視して職員室の中へと入っていく。俺も人混みをかきわけながら吉澤先生に続いた。あと1時間程度でここにいる生徒達は帰るのだろうが、その間教師らは多忙を極めることになる。  吉澤先生は俺を自身のデスクへ案内させると、椅子にどっしりと腰をかけた。いきなりもたれ込んだからか、椅子がギシリと唸る。はぁと一息ついた吉澤先生は俺を見上げると、ゆっくり話し始めた。 「お前の兄の 鷹野 隼斗なんだけど、昨日の朝から記憶喪失なんだよ。」 「…は?」  その突拍子もない発言に思わず気が抜けた。隼斗が記憶喪失だと? 何とも考えられない話である。突然何を言い出すのだろうか、この教師は。 「あー、信じられないかもしんねぇけど、これは本当だから。まぁとりあえず、隼斗は多分お前のこと全部忘れたと思うんで、そんなに刺激しないでやってくれ。変に問い詰めたら余計に混乱する可能性があるんだとよ。」  後頭部をポリポリとかきながら、吉澤先生は告げた。俺は理解できないまま場に突っ立っている。目の前の男の言葉を、無理やり頭の中に叩き込ませた。 「…本当に?」  ようやく出てきた言葉はそれだけだった。吉澤先生は真顔でコクリと頷く。その様子を見ながら呆気に取られていた俺だったが、ぐにゃりと過去の記憶がフラッシュバックしてきたのだ。 『悠樹、お前は僕の弟だ。だから愛せない。』  一年前に隼斗から言われた言葉が、突如として脳内に流れ込んできたのだ。 『そんな気持ちを僕に抱かないで。僕は悠樹を弟としか見れない。僕を名前で呼ぶな、せめて兄ちゃんと呼べ。それが最善だ。』  毎晩男を取っ替え引っ替えしながら、ベッドで獣のように性行為を繰り返す毎日を送っていた隼斗から告げられた、衝撃的な言葉。いつかは俺のところへ帰ってくるはずだからと我慢していたのに、それは叶わない事なのだと現実を突きつけられた言葉を。 『僕が悠樹にしてやれることは何もない。そうだろ? お前は賢いから、僕が考えていることも全てわかるだろ?』 「──黙れ…。」  同時の俺はそう言ったような気がする。地獄から響いてくるような低い声で、絶望するかのように苦しんだ声で、悲しみと怒りが混じった怒号で。 「鷹野、何か言ったか?」  きょとんとした顔で吉澤先生が俺を見ていることに気がつき、ふっと現実に引き戻される。いいや、と適当な返事を返して押し黙った。  俺は隼斗に莫大な感情を抱いている。俺はそれを敬愛と呼んでいるが、どうやら周りから見たら違うらしいのだ。俺は一年前、見事に隼斗にフられてしまった。それをズルズルと引きずって今に至るんだ。いつの日から俺は隼斗を避け始めた。毎日ずっと一緒にいた仲だったのに関わらずである。しかしそれからというもの、隼斗の性欲はさらに悪化していった。所構わずヤりたい時にヤる人になり、節操もなければ貞操観念もない、はしたない下品な人へと成り下がってしまったのだ。  それでも俺は隼斗に何も伝えられないまま日々を過ごした。何をしても俺の気持ちが晴れることなどなくて、人形のように毎日を送っていたのだ。  ──いっそのこと、隼斗を閉じ込めてしまいたいと考えた。しかしすんでのところで自分を宥め、なんとか気持ちを抑えていたのである。そんな俺がした反抗はただ一つ、隼斗に強く当たることだけだった。最初こそ隼斗は悲しんだものの、最近はそれも当たり前だと言うかのように接してきた。まるで俺は元々冷酷だったかのように。鷹野 悠樹は人の心がない機械であるかのように。  その気ならば、とことん悪党になってやろう。そんな無駄な怨念と、今すぐに甘えたいという強欲と、隼斗に対する罪悪感などが俺の心で渦巻いて、傷はどんどん深くなったのだ。それはもう、取り返しがつかないほどに。俺はただ、隼斗と相思相愛したいだけ。しかしそれは絶対に叶わない夢にすぎない。どれほど悲しいことだろうか。むしろ笑えてくる。  けれど、どうだ。そんな隼斗が記憶喪失になって、俺のことを綺麗さっぱり忘れているというのだ。警戒心さえ取り払うことができれば、もう一度隼斗にプロポーズするチャンスが訪れることだろう。上手くいけば俺の低俗な望みが叶うかもしれない。  あぁ、どれほど都合が良いことだろうか。これは絶好のチャンスだ。恋の神が俺に与えなさった試練なのだ。  理解した瞬間、不覚にも笑みがこぼれそうになった。未知の期待に心が踊る。そうだ。もう苦しまずに済むのだ。記憶喪失で無色になっている隼斗を俺の真っ黒の色で染めてやるのだ。 「おい、鷹野。どうして笑ってんだ?」  吉澤先生に指摘されて、はっと気がつく。つい顔に出してしまったようだ。俺は慌てて普段の不機嫌な顔を作ると、ぶすっと吉澤先生を睨んだ。すると吉澤先生は大きなため息を吐くと、面倒そうに言った。 「あーはいはい、何でもないですよっと。限度を超えなきゃ良い話だし。とりあえず、お前の兄ちゃんは凄く疲れているから、あまり刺激を与えるなよ。」  俺の兄だと? 笑わせる。もうすぐで俺の伴侶となるというのに。見ていろ、吉澤。俺が隼斗を手に入れる瞬間を目に焼き付ける準備をしておけ。 「ありがとうございました。」  俺は適当にお辞儀をすると、早足で職員室から出る。生徒の行列をくぐり抜けて俺の教室へと急ぐ。  今から部活をして、風呂に入って、夕食を食べてから、隼斗に会いに行かなくては。吉澤先生からストッパーがかかっているが、知ったことか。俺は隼斗と会わねばなるまい理由があるのだ。  心の中で高らかに笑いながら、俺は平凡になるはずだった今日という日を過ごした。いや、知らず知らず笑っていたのかもしれない。しかしそんな些細なことはどうだって良いのだ。  上手く計画が進みさえすれば、それで良いのだから──。  そうして今、俺は隼斗の寮室の前にいるというわけである。隼斗と接触しているところを人に見られたくないので、時間帯は夜中を選んだ。そのため人はいないものの、隼斗が確実に寝ているので困ったものだ。起こすか、起こさないか。そんな幸せな葛藤に揉まれながら、俺は冷たいドアノブに手をかける。  隼斗。記憶喪失をしたのなら、俺を忘れていてくれるよね? 散々酷いことを言った俺を他人のように扱ってくれるよね? 鷹野 悠樹だと自己紹介すれば、快く俺を悠樹と呼んでくれるよね?  そんな浅はかな欲望を胸に、ついに扉を開ける。この時の俺は知る由もなかった。俺の低俗な望みは決して叶うことがないということを。
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