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それは真夜中のこと。しんみりと重苦しい空気の中、俺は目が覚めた。
目を開けても視界は闇で埋め尽くされている。俺はぼうっとしつつ、ゴシゴシと目をこすった。それから寝返りを一つする。
再び寝ようとしたのだが、一度起きてしまえば色々と考え事が出てくるもの。俺は今が何時であるか気になってしまい、布団の中で悩んでいた。
いいや、時計を見ちゃおう。俺は小さな決断を下すと、もぞもぞと上半身を起こす。それから枕元に置いてあった時計を掴むと、ライトを付け、時刻を確認した。
1:30──時計はそう表示していた。面倒な時間帯だな、と思ってため息をはく。まぁ、たとえ変な時間帯に起きたとしても寝るだけなのだが。
俺は時計を元の場所に戻し、そのまま布団の中に入る。そして寝ようとした。
その時だった。廊下から微かに足音が聞こえてきたのである。こんな時間に廊下を歩く生徒がいるのか、とその足音に違和感を覚えていた。
足音の主は単調なリズムでコツコツと廊下を進んでいく。いつしか音が奇妙に聞こえ始めてきて、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。何故だろう、すごく嫌な予感がする。まさか、足音の主は俺に用があるんじゃないだろうな。
いや、そんなことはないはずだ。まったく、俺も眠たくて冷静に判断できないようになっているな。こんな時はさっさと寝てしまって、この胸のざわめきを落ち着かせよう。
そしてまもなく。──足音は、ピタリと俺の寮室の前で止まった。
…。………へ!? だ、誰!?? こんな夜中に人の部屋の前で止まって、何をするっていうんだ!?
取るに足りないことではあるが、寝ぼけている俺はどうしても気にしすぎてしまう。被害妄想と言うのだろうか。非常に恐ろしく感じて冷や汗が止まらない。足音の主は俺の寮室の前から動く気配がなく、そこで止まったままである。
俺はぶるりと身震いして、ただ扉を見守る。偶然俺の寮室の前で止まっただけならば、いつか去っていくはずだから。そうなることを信じて見守った。
しかし現実は非情である。まもなく扉は足音の主によって開けられた。鍵なんて掛けていない部屋にゆっくりと潜入してくる。俺は廊下から漏れるあまりに強い光に目が眩み、しばらくぎゅっと目を瞑ってしまった。
足音の主は扉を閉めると、薄暗い部屋の中、俺の元へ近寄ってきた。光が消えて落ち着いた俺は目を開けた。恐怖からなのか、好奇心からなのかはわからないが。とにかく俺はその者を見たいと思ってしまったのだった。
「…え?」
そこには、悔しそうな顔をした弟が突っ立っていた。
俺の弟──鷹野 悠樹はあどけない少年だった。5歳下ということもあり、俺にとって思わず可愛らしく見えていた。一般的な家庭では、兄弟同士で喧嘩など日常茶飯事だと聞くが、俺達はそういうものが全くなく。弟の純粋さと無垢さが後押ししたのか、俺と悠樹の関係は最高であった。
ところが今世、いや、俺が生まれ変わっても弟は存在している。それどころか年齢は違うし、性格も違う。見た目だけが俺の知っている弟なのだ。弟も輪廻転生しているというのか。
「ねぇ。」
弟に声をかけられ、ピクリとする。とても切なくてか細い声だ。
「俺のこと、覚えてる?」
弟はぎゅっと目元に力を入れて、祈るように尋ねた。その表情を見てゴクリと唾を飲む。
弟は、悠樹はきっと不安なのだろう。それは当然だ。覚えてるか、と俺にわざわざ確認してくるということは、どこからか俺が記憶喪失していることを聞かされたのだろう。どんな形であれ、家族が記憶喪失をしたら心配するに決まっている。それと同時に、悲しみに突き落とされるに決まっている。
…俺は、弟の悲しそうな顔を、見たくない。たとえ今世の弟が俺のことを嫌っていたとしてもだ。それでも俺にとって弟とは天使のような存在であり、決して切り離せるものではない。
いっそのこと、嘘をついてしまおうか。俺は記憶喪失なんかしていないと。
「悠樹、どうした?」
子供をあやすように優しい声で呼びかける。悠樹は眉をピクリと動かした。
「何で俺のこと知ってんの? 隼斗は記憶喪失だって聞いたんだけど?」
やはり誰かに教えてもらったのか。悠樹は静かに俺を見つめる。その視線に早く答えてあげなければと考え、俺は小さく微笑んだ。
「他の事は忘れたけど、悠樹のことだけ覚えているんだ。」
「へぇ。俺の名前も知ってるんだ。」
悠樹はぎゅっと奥歯を噛み締める。
「じゃあ、隼斗は俺のこと好き?」
俺は悠樹の目をじっと見つめる。その瞳は俺に何かを伝えようとしているらしい。これは単純な問題ではないと本能が警告する。
俺を兄と呼ばず隼斗と呼ぶのを見て、俺が知っている弟とのギャップを感じる。けれど俺が取るべき行動は一つだけだ。俺は暖かな表情を浮かべると、ニコッと笑いかけた。
「あぁ、弟として好きだぞ。」
「──『弟として』?」
悠樹は俺の発言を聞くと、みるみるうちに悲しそうな顔になっていく。それから何かを諦めたように、ふっと乾いた笑みを漏らした。
「あっそう。期待して損した、バカな隼斗から何も変わってないじゃん。」
はははと高らかに笑う悠樹だけれど、心の中では怒っているのだと俺は直感する。しかしながら悠樹が怒っているとわかったところで、何も知らない俺が口出しできないのも事実。布団の中で悠樹を見守りながら、どうするべきかと一生懸命に考えることしかできなかった。
「…はぁ、もう全部面倒くさい。」
悠樹は生気がなくなったようにぼそりと呟くと、とぼとぼとした足取りで俺から離れていく。待って、と声をかけた方が良かったのだろうけど、どうしても喉から声が出なかった。大切な弟はそのまま部屋から出て行ってしまう。そして再び俺は闇の中でひとりぼっちになった。
せっかく、弟と和解できるチャンスだったのに。何を間違えてしまったと言うのだろうか。俺は頭を抱える。ショックだった。
それからはぐっすり寝付くことなど難しく、先の見えない苦痛に悩まされていたのだった。
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