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暗(くらがり)を覗く者曰く
鋒と蛇の舌に挟まれて引き攣ったれんの顔から、瞳だけがごろり、京之介に向く。
「兄上どうか、この化け物諸共殺してください」
掠れた声を絞り出し、れんは着物の袷を押さえた。
「活きが戻ったか。なかなか好い女だ。ただ殺すのは惜しい」
袷に拒まれた男の手が、起伏をなぞって下へ向かう。
「すぐに悦くなる。腰を振って命を乞え」
男の顔は頸の影へ。
「否!」
れんは身を捩った。勢い、男の手から刀が捥げ落ち地に突き立つ。ここぞとばかり、れんは男の腕にしがみ付いた。
「兄上、さあ! れんは、先にあの世で待っております……」
れんは叫ぶが、京之介は未だ迷いの中だ。見透かして男は、
「兄上は可愛い妹を斬るつもりにはなれんようだ」
簡単にれんを振り解き、その首に手を掛ける。
「刀など無くても、首を折れば容易い。兄の一太刀とどちらが早いかな?」
相手は人に非ざる者。力の程は計り知れぬ。喉笛に回り込む指、呻くれん。
「謀るな! れんが死んで困るのは、生きた餌しか喰わぬ其方だろう」
京之介は声を張り上げた。れんを助けたい。しかし踏み込めば、生き餌を喰えなくなるとはいえ、男がれんを殺さぬ確証は無い。
「試してみるか?」
ちらつく舌が挑発する。浮世の理から外れた者は、利の有る無しに頓着するか。京之介の額に汗が浮かぶ。
「何処へ逃れても付いて回る、家に背いて重ねた不幸。化け物に辱められてまで生き永らえよう身の上では……」
言い募るれんの喉笛に男が指を食い込ませる。黙らせた女の口に伸びる、火のような舌。撫でられて濡れた唇艶めけば、煽られて燃え出した欲が京之介の覚悟を照らす。
一度は捨てた命、今更惜しむつもりは無いが、れんを奪られてなるものか。
化け物を斃し、二人でここを出る。生きるも死ぬも、その後で。
京之介の肚は決まった。刀を納めて座し、呼吸を整える。
「俺を喰え」
「ほう」
態度を変えた京之介に、男の眼が爛と光る。
「急に萎れて、何を企む」
訝しみ、男は獲物に巻き付く腕を緩めない。反面、貌は娯しげに、突き出して京之介を伺う。
京之介は両手を突いて頭を下げた。
「その代わり、れんを助けてくれ」
「面白い」
男の指がれんから離れる。若造を片付けるのは寸の間だ。女の足では逃げ切れまい。化け物の算段はれんにも理解る。
「なりません、兄上!」
首を振ってれんは泣く。
「お前を斬れぬ以上、こうするより他はない」
京之介は両の拳を握り締める。
「成る程、ならば望みどおり一呑みにしてくれよう!」
男の両眼が左右に離れ、裂けた口は顳顬まで達する。髪はずるりと剥がれ落ち、腕は着物ごと胴体にへばり付き溶け込む。大の漢を数人束ねた太さに膨れ上がった、その軀の表面は鱗。具現した正体は大蛇である。
塒を巻き鎌首を擡げた大蛇から、識々と音がする。れんは京之介の背後へ駆けた。その背に縋ろうとする妹を、兄は突き飛ばす。
「巻き添えを食う前に水に潜れ。泳がなくても、力を抜けば浮く」
「れん一人で行けませぬ。ここで二人で──」
言いかけたれんの体が宙に浮く。大蛇の尾が、か細い体に巻き付いて締め上げた。
〈すまんなあ、この姿では、別れを待ってやるだけの押さえが利かぬ〉
大蛇と成った男の声は、直接脳裡に響く。
〈兄を呑んだら次はお前だ。逃すまいぞ〉
「あ、あに、う、え……」
れんが喘ぐ。京之介の額から汗が落ちる。
大蛇の両眼が光り、牛をも吸い込みそうな幅で顎が開いた。棘に似た牙が京之介の頭蓋を狙う。その動き素早く、だが音は無く。
刺すように鋭く迫る大蛇に向けて、京之介は拳を開いた。瞼のない眼に砂の礫が降り掛かる。
〈小癪な!〉
大蛇はのたうってれんを放した。撓る尾が石灯籠を薙ぎ倒し、祠を崩す。胴は岩壁を削り、足元が揺れた。頭は闇雲に振っているようでいて、獲物の位置は判るのか、再び開いた顎を京之介に差し向ける。
大蛇の牙を躱して京之介が走る先には先刻までれんを脅かしていた男の刀が立っている。引き抜き様に振りかぶり、大蛇の脳天に突き刺した。
〈おのれ!〉
大蛇はさらに激しく暴れる。踊り狂う大蛇の首が振り下がるところに、京之介の太刀が斬り上げる。竄と噛み合い、大蛇の頭が胴体から離れた。
「れん!」
蹲るれんを抱きかかえ、跳ね続ける首無し胴の隙間を縫って水辺に向かう。男の声は、もう聞こえなかった。
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