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今日から我の往く道見たりと
薄日の下に漂う雨上がりの湿気、雑木林の翳り。岩の向こうに流れる水は濁として、淵は、静かに佇んでいる。
はらり、水面に落ちた葉の向こう、川縁で寄り添う二人。れんは、京之介の胸に顔を埋めて震えている。
「寒いか」
京之介は訊いた。れんは応えない。肩を抱く手に力を込めると、着物から水が絞れる。着崩れた後ろ襟から覗く白い肌に、濡れた黒髪が張り付いている。
手を添えて顔を上げさせれば、その目には、涙。
「なぜ、死なせてくれなかったのですか」
唇は藤色に透けてしどけなく、白魚の指は京之介の胸倉を掻く。
「生まれ変わって添い遂げようと、言ってくれたではありませぬか」
「無論、そのつもりだ。しかし、こうなってしまっては。日と場所を改める他あるまい」
頬を撫でる京之介を、れんの虚ろな目が素通りする。
「兄上は、死ぬのが怖いのでしょう」
「まさか」
「では、その手でれんを縊ってくださいませ。こうしているうちに」
れんは京之介に抱きついた。腰に腕を回し、口を吸う。柔らかく温い求めに応じれば、京之介は否応無しに漲る。
(恐れてはいない)
京之介はれんの首を手で包む。先刻、化け物が圧した喉笛の形を確かめる。
(非がついたから仕切り直すだけだ)
指は鎖骨を滑り降りていく。ぴくり、れんの身体は一瞬強張ったが、唇と舌の動きは激しさを増す。京之介は袷の中に手を入れようとした。その時。
れんは撥と身体を離した。
「れんは、先に参ります……」
握りしめた脇差しが白い腹を翻す。京之介は自分の腰を確かめるが遅い。
れんに目を戻せば既に、刃を喉に向けていた。
「待て!」
京之介の叫び空しく、刃がれんの喉を裂く。
華咲く血潮に濡れる表情穏やかに、京之介の腕の中でれんは事切れた。早く早くと責付くように、薄く開いた唇が横たわっていた。
* * * * *
山、といえば谷。
流れる川は少しの雨でも打切れて、付近の百姓を困らせる。若い侍が村外れに居着いた頃からである。
「背川様のお怒りじゃ」
「おかしいと思ったら祠が壊されておった」
「あの気味の悪い若造の仕業か。疫病神め」
村人が噂する侍の名は、京之介。身を寄せた荒屋は、骨の折れた障子、腐りかけた柱、屋根には穴。落ち窪んだ眼窩は空に向き、食うや食わずで窶れた頬はぶつくさと念仏を唱えている。
「今度川が暴れたら、村はもう保たねえ」
「早いとこ疫病神を退治しねえと」
「しかし相手はお武家様だぞ」
「構うものか、余所者だ」
あれから何日経ったか、京之介は数えていない。なぜまだ死ねずにいるのかは、識っている。
今際の際のれんの顔を思い出す。吹き出す血の温かさは今でも肌に絡み付いて、後を追えばあれが待っていると知らせる。
起きていれば苛まれ寝れば夢にまで顕れる女の情は最早、怨念。
霧散を念じて終日、柔肌を思い出して慰みに耽る。
今日も何度目かの果て、雨音に耳を傾けていると、戸口に人の集まる気配がした。
「おい、お侍さんよ」
蓑笠姿の村人が一人、土間に踏み入る。
「お前様、淵に行ったな?」
京之介は無言。目を合わせようともしない。鍬や鋤を手にした者たちが続き、京之介を囲んだ。
その日、川縁には小さな塚が立った。仔細を語る村人はいない。雨は止んだ。
夜。墨のような雲が切れ、月の光が塚に射す。落ちた影の形は人、透き通るその姿は京之介。
青白い顔で刀を抜けば、透けた軀に色が乗る。
「れんよ、俺は彼岸へ渡れぬらしい」
髷が解け、髪が下りた。
「淵へ」
開いた口から覗く、火のような舌──。
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