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三話 はじまりの騎士
ルーは、本能的にそれがなんなのかを理解した。自分の喉を潤したのは、悪しきアカシアの精霊が持つという蜜。
今まで生きてきた中で、これほど美味しい蜜を味わったことがない。この味を知ればもう他の食事など、どうでもよくなってしまいそうだ。それに、ミアの唇は柔らかくあれほど敬愛しその身を捧げていた、エラノラの感触を忘れてしまうほどだった。
「俺の名はルー。北の国で女王エラノラの騎士として忠誠を誓っていた」
『そう…………。でもきょうから、あなたはわたしの『はじまりの騎士様』よ。ずっとまっていたの。お母さまが枯れてからずっと。うんめいの人をまっていたの』
ミアの言葉が頭の中でガンガンと響く。
老人や乳母たち、そして先代たちがなぜアカシアの精霊を恐れたのか。
醜く恐ろしい精霊だといえば、子供たちはこの場所に近付かないだろう。ミアを見れば、女王蟻への忠誠が揺らいでしまうからだ。
『はじまりの騎士様』『運命の人』と彼女の口から囁かれるだけでルーは高揚感を感じる。
「ミア、貴女の騎士になろう。内乱が起こり、同胞たちが全滅の危機に瀕している。俺は彼らを助けるためにここまできた……。俺はブリンダビアの兵士たちより強くなれたのか」
ルーはそう言うと、ミアの前に跪き彼女を見上げた。ミアはにっこりと微笑みルーの頬を撫でた。
『ええ。つよくなっている。あなたのおともだちにも、わたしの蜜をわけてあげる……。そうすればつよくなれる。あらたな女王蟻がうまれたら、まっさきに飲ませてあげて』
「そうか……あの蜜を飲ませれば良いのか。だが、他の奴らが君と口づけるのは嫌だ……。他の騎士も貴女の始まりの騎士になるのか?」
ルーはまるで子供のようにミアに縋り付き不安に声を荒げた。ミアはくすくすと笑い、ルーのフードを取ると彼の額に口づけ、幼い口調で子供をあやすように言う。
『ううん。わたしのこえは、あなたにしかきこえないから。お母さまが、枯れる前に蜜をのこしてくれたの。いずれこれがひつようになるからと教えてくれた。きて』
「そ、そうか」
彼女に手をひかれるようにして、ルーは導かれていく。裸足の彼女が行く先には枯れたアカシアの樹木が横たわっていた。
そして、枝で作られた十字架の墓の前にはミアの額に埋め込まれた、琥珀色の宝石と同じ色をした瓶に入った輝く蜜があった。
ミアの話によると、はじめのうちはまだ彼女たちは多くの蜜を生み出すことができない。どのアカシアの母親も、亡くなる前に額の宝石から溢れ出した蜜を娘に与えるのだという。
彼女たちはそれぞれの運命の『はじまりの騎士』が来るのを待ち、いずれ自分もこの琥珀色の宝石から蜜を溢れ出して、民と娘に分け与えるのだという。
ルーはそれを受け取ると、この場所から離れ、仲間のところへ向かうことさえ辛く、苦しく思うほど強くミアに惹かれていた。
「俺は、一時でも貴女と離れるのが辛い」
『ルー、だいじょうぶ。わたしとあなたが一緒にいられるためには必要なこと』
ミアの言うことは正しい。
すでに、ルーの忠誠はエラノラではなく彼女へと向いていた。それならば国を捨ててしまえばいいが、これは彼女が望むことだと彼の頭の中で響き渡る。
再び彼女に口づけられると、体中に力が漲り立ち上がった。ブリンダビアの兵に仲間が皆殺しにされる前に、急がねばならない。
✤✤✤
ルーが国に戻ると、以前よりも死者は増え、国は悲惨な状況になっていた。跡形もなく、愛馬をつれて姿を消した彼を訝しみ、ブリンダビアのスパイだったのかと噂する者も少なからずいた。
しかし、再び国に戻った彼に驚き、スパイ容疑をかけられたルーは、今までどこにいたのかと憲兵たちからきつく尋問されることになる。
これまでの経緯を話し、黄金に輝く蜜を見せると、言い伝えに半信半疑の彼らはそれを試しに舐めてみた。その瞬間、彼らは毒気を抜かれたように大人しくなった。
「エラノラ女王は?」
「実は………」
ルーが旅だった後、エラノラは最後の子供を産み落として、息絶えてしまったのだという。本来ならば、ブリンダビアを産んでから信頼できる騎士とともに、静かな余生を送って永遠の眠りにつくのが幸せな最期だったはず。
彼女は、ボロボロになった体で騎士を受け入れ、子供を産み落とし、そして最後に生まれたのが新しい女王蟻という奇跡を起こした。
――――彼女の名前はカリンダ。
「カリンダ女王にこの蜜を与えてほしい。これを飲めば、嘆きの女王ブリンダビアのみならず、外敵を打ち負かす力を持つ騎士をこの先生むことができる。負傷した兵士の傷もすぐに治るだろう。そして新たに生まれてくるカリンダ女王の子供たちにも必要だ」
憲兵たちは、まずは警戒する乳母の食事にアカシアの蜜を混ぜると彼女たちは従順になり、生まれたばかりのカリンダ女王に蜜を与えた。
年老いた者は、アカシアの蜜によって不自然に騎士の傷が癒えていく様子を見て恐れたが、その時にはもう、耳を貸す者もにいなくなってしまっていた。
「なんということじゃ、禁足地に向かったのか。おそろしいことになる……。その蜜を口にすれば最後……」
そんな年老いた者たちの声はいつしか消えていった。やがてルーの指揮の元、彼らの結束は強くなり、ブリンダビアの兵士たちを打ち負かすことに成功する。
いまや『偽の女王』と成り下がった嘆きの女王蟻を捕らえると、彼らは異物を排除するかのように、八つ裂きにする。
女王を失った騎士たちは、かつて自分たちが行ったように、蜜の女王カリンダの指示によって殺されるものだと思っていたが、ルーは血飛沫を浴びた顔で、ゆっくりと現れると微笑んだ。
「カリンダ女王はまだ赤子だ……君たちの力が必要になる。蜜の女王と女神ミアに忠誠を誓ってくれ。我々は君たちを歓迎しよう」
鬼神のような笑顔でルーは彼らに手を差し伸べた。ブリンダビアの騎士たちにとって女神ミアなど、聞いたことも無ければ見たこともない。エラノラ女王が逝去し、カリンダ女王になってから、彼らの中で何かが変わったのだろうか。
ルーの背後に控える騎士たちも、同じように血まみれのまま自分たちを歓迎をしている。
もとより、死んだ女王蟻の騎士を受け入れるのは、血を濃くしすぎないためでもあり当然のことだ。優秀な我が子とのみ、交配しようとしたブリンダビアが狂っていただけなのだろう。
だが、何故か恐怖を感じつつも彼らはルーに従い、忠誠の蜜を受け取ると飲んだ。
「うまい……こんな蜜は始めてだ……なんという……。蜜の女王カリンダ様とミア様に忠誠を誓おう」
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