水曜日にどこかへ行かなかった青年

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水曜日にどこかへ行かなかった青年

わたしは人々を乗せて運ぶことが仕事の電車です。 長々続くメタリックな車両を引きながら、日々色々な場所を走り続けています。 駅のホームでは今日もたくさんの人々が、わたしの到着を待っていることでしょう。 今日は水曜日。月曜日の朝ほどではないのですが、水曜日の朝もわたしに乗らない人が出やすいので、走る際には注意しています。 万が一のときにも心を乱さずに、即座に冷静さを取り戻せるように。 電車を待っていたのに乗らなかった人は、わたしの心に重いものを残して去っていきます。 事が起こる可能性を考えていれば現実に起こっても、少しだけ心に受けるショックを減らせる気がするのです。平静を保てる気がするのです。 わたしに乗りたくなかった彼ら彼女らがどこへ行くのかと言えば、ほとんどの人が…黄泉へと向かいます。 「ほとんど?」「全員ではないのか?」と疑問を抱く方もいるでしょう。 乗らないことを選んでもあの世に逝かず、現世のどこかにある自分の居場所へと戻った人も少なからずいました。 わたしに乗ることを選ばなかった彼ら彼女らのうち、水曜日にどこかへ行かず現世に戻ったある青年の昔話をしましょう。 ♢     ♢     ♢     ♢     ♢ 青年がわたしに乗らなかった水曜日の朝は、小雨が降る空が暗い日でした。 水曜日は週の半ばに差しかかるためか、休み明けの月曜日とはまた違う疲労感を漂わせている人が多いです。 木曜日は次の日が平日終わり、金曜日は次の日がお休みなので疲れがあっても心の重荷が違うのかもしれません。 水曜日はお休みまで二日も間があるので、ため息をつきたくなるのでしょう。 白線の内側で先頭に並びわたしを待っていた青年も顔色が青白く、若いのに生気の欠片も残っていないような枯れた表情をしていました。 寝坊して慌てて家を出てきたのか、黒髪は整えられていなく前髪の一部は寝癖がついたまま、紺色の細身のスーツは上下ともよれて皺があり。 メガネをかけた青年の顔立ちは悪くなく、きちんとした身なりであれば印象も大分違うのではないでしょうか。 線路を走るわたしは駅のホームとの距離が近づく中でその青年が視界に入り、二つの不安を抱きました。 『あの青年は倒れてしまわないだろうか、急に飛び込んだりしないだろうか』 彼の体が時折少しよろける様子があったので、めまいを起こさないかと思ったからです。 彼は昨夜泣いたらしく目元が赤く腫れていて、電車に乗らない理由を持っていそうだったからです。 わたしの頭(先頭車両)がホームに入りかけたあたりで、青年は前のめりに倒れ線路へと落ちてしまいました。 誰かが素早く緊急停止ボタンを押したこと、わたしが青年に気をとめたため走る速度が知らず落ちていたこと、青年が落下した場所がホームの端側でわたしと距離があったこと。 好条件が重なり青年への衝撃が抑えられ、わたしとぶつかった割には体をどこも欠損せずにすみました。 さりとて無傷ではなく頭を打ったようでかなりの出血があり、仰向けに横たわった体はピクリとも動きません。 肉体からぬけ出た青年の本体は、キレイな状態でした。 『助かるかと期待したけれど、彼も…』 魂となった青年を見て、わたしは「亡くなった」のだと思いました。 『…自分の亡骸を見ていない?』 死んだ直後の人はほとんどが自分の肉体を見つめるものなのですが、青年は自分を見ずに正反対の方向を向き線路にたたずんでいます。 他の死者たちとは違う行動に疑問を抱いていたところ、青年の様子を確認していた人の間から「息がある」との声がきこえてきました。 彼の肉体はまだ生きているので自分の姿を見ないのでしょうか? それとも自分の魂が体の外に出たことに気づいていないのでしょうか? 青年の体は治療のために運ばれて行きました。が、魂の方は自分に無関心で、一度も肉体に振り向きません。 ずっと同じ姿勢で立ったまま、ボンヤリとしているだけです。 わたしは早く肉体に戻らなければ、本当に青年は死んでしまうのではと心配になりました。 『そこの方わたしは電車ですが、こんな場所にいないで体に戻られた方が良いのではないですか』 たまらず青年に向かって声をかけると、わたしの方を見て静かに頭を振りました。 『体が死ぬのは別にもう構わないので…』 低く小さな声で、彼はわたしの問いかけに答えます。 わたし、電車が呼びかけたことにも驚かず、生死の境にいる自分の状況にさえ淡々としています。 青年は死を望んでわたしに轢かれようとした…のか。 『なぜ、あなたはホームから転落したのでしょう?』 『朝まで飲んでいて二日酔いを起こして、クラっと目が回ってしまったらしく…』 『自殺ではないです』 彼が線路に落ちた理由は、お酒の飲みすぎによる体調不良だったようです。 けれど、平日に夜を明かしてまで飲むなんてどうしたのでしょう。 魂になっても残る目元の赤さ。よほど辛いことがあったに違いありません。 『自殺をされたのではなくても、死は望まれているんですね…』 わたしはそう漏らすと、青年は静かにうなずきました。 『おれは…人に迷惑をかけるだけで、いても意味がない人間なんです。体が死にかけているなら、そのまま死ねた方がもう人に迷惑をかけないですむ』 『ーおせっかいな意見ですが、人は生きる上で誰であっても他人の助けが必要です。あなたが他人の力を借りることを、それほど心苦しく思わなくても良いのでは…』 どんな人でも生まれて死ぬまでの間、一度も他人の助けを借りずに人生を終えることは不可能でしょう。 わたしをコントロールしている運転手も人々を運ぶために働いていて、電車を運転する人間がいるからこそ乗客たちも移動することができるのです。 それも他人の助けを借りているという範疇に含まれるはずです。 『本当に迷惑にしかならないんです。おれのせいで追い詰められた人だって実際いて…。おれがいなければ、その人も自分で死ぬことを選ばなかったかもしれないのに…っ』 メガネの奥にある彼の目から、涙が筋をつくって頬を伝い下へと落ちていきます。 魂である青年が零した涙のしずくは、地面を濡らしませんでした。 青年は昨日の夜も泣いたのでしょう。 心を慰めるためにお酒を大量に飲みながら、目が赤く腫れ上がるまで。 自ら亡くなった「その人」を思い、自責の念に苛まれていたのかもしれません。 『その人は職場の上司で自分から電車に轢かれて亡くなりました。仕事ができないおれのフォローをいつも親身になってしてくれた…。他の業務を抱えていて大変なのにおれが負担をかけたせいで、きっと…悩ませていたんだ…』 『会社が自殺の原因じゃなければ月曜日の朝に死を選ばないと思うんです。出社するのが辛くて会社から逃げたかったんだと思います』 『おれは本当にバカで人の足を引っ張るだけの役立たずで…入社したときからその人に面倒ばかりかけて困らせてた…。会社が苦痛だったのは…おれがいるからかもしれない』 わたしは青年の話をきいて、その人が死んだのは「月曜日の朝」という部分が引っかかりました。 先週の月曜日の朝、わたしは違う駅で自らホームの白線を踏み越えた中年男性を撥ねたのです。 死後の中年男性はどこかへ行く前に、わたしに身の上話をしてくれました。 仕事で成果を出せずに悩んでいる部下がいると、その話の中できいたように思います。 もしかしたら青年は、月曜日にどこかへ行った男性の知り合いなのでしょうか。 『その人は頭の毛が丸めたように短い方でしたか?中年の男性で少しお腹が出て、グレーのスーツを着ていませんでしたか?』 わたしは「その人」が中年男性と同一人物かを確かめるために、男性の特徴を上げて青年に質問してみます。 青年の回答は、「その人」と中年男性の特徴が一致するとするものでした。 『あなたがおっしゃっている「その人」は、先週の月曜日にわたしとぶつかった中年男性かもしれません。事故が起きたのは…朝でした』 青年とわたしの間に、しばし静寂の時間が流れました。 彼にとって中年男性はとても恩のある存在であり、亡くなったことにどうしても自分の責任を感じてしまうのでしょう。 中年男性の命を奪ったわたしは、青年には憎むべき凶器と映るのでしょうか…。 『あなたがお世話になった男性はあなたを決して疎んでいませんでしたよ。彼にとって怖かったのは、会社そのものなのだと思います。あなたが追い詰めたのではありません』 月曜日の朝にいなくなった中年男性と交わした会話を思い返します。 『今日は部下の子と昼を一緒に行く約束してたんですよ。仕事でまだ成果出せてないことに悩んでて、本人頑張っているからうまい飯でもごちそうしてあげたくてね』 『でもごちそうできなくなりました。こっちから約束しておいたのに、守れないことだけが心残りかもしれません』 彼は部下との約束を守りたいという思いもありながら、死への衝動を選びました。 青年に温かい心を向けていたからこそ、信頼を裏切ったことに心苦しさを持っていたのです。 『あなたにお昼をごちそうできなかったこと、あなたとした約束を守れなかったことが唯一の…心残りだったと言っていました』 青年はわたしを見上げ、唇を微かに震わせながら言葉を紡ごうとします。 『本…当に…本当に…そう言って…くれたんですか…?』 『はい。本当のことです』 わたしは青年の不安を払うために、断言して答えました。 『月曜日の昼食に…おすすめの寿司屋へ連れていってもらう予定でした。「うまいものを食べたらツキがくるぞ」って』 もし、ここに死んだ中年男性がいたとしたら、青年にどんな言葉をかけるのか。 生死の狭間にいる彼へ、どちらの選択をすすめるのでしょう。 わたしは「生」、この世に戻る道を促すのではと考えます。 『行く予定だったお店に…行ってみてはいかがですか。おすすめしたいところであるなら、きっと美味しくてあなたにも食べてほしかったのでしょう』 青年は少し思案して、わたしに頭を下げました。 『…ありがとうございます』 礼を述べた後、彼の姿は空気にとけるように消えていきました。 わたしに確かめるすべはありませんが、青年は黄泉ではなく現世にある体に戻ったと信じています。 ♢     ♢     ♢     ♢     ♢ さあ、もうすぐ駅に到着です。 わたしに乗るみなさん。水曜日の今日と木曜日・金曜日を乗り切れば、またお休みが待っていますよ。 お休みの日に何かしたいことはありませんか? 休日の予定をあれこれ考えて、先の楽しみを支えに水曜日を過ごしましょう。 どうしても水曜日が辛くて耐えられそうになければ、そんな日は思い切って休めるならお休みしてください。 心身が悲鳴をあげるときは、無理をするとわたしを「拒みたく」なるかもしれませんから。
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