社長さんと桜の木

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社長さんと桜の木

 四月の朝。AB株式会社のビルの周りでは、桜の花が満開でした。皆なんとなくうれしそうな顔で出社してきましたが、社長室では一人だけ怒っている人がいます。 「誰だ、こんな広告を作ったのは!」  朝の八時半。AB株式会社の社長室では、男の人がチラシを持って怒っていました。 「こんな広告は、私は許可していないぞ!」  男の人は、この会社の社長です。社長の手には、朝の新聞に折り込まれていた広告が握られていました。 「九十パーセント割引とは何だ! ただ安くすれば売れるというものではないんだぞ! わかっているのか!」  社長の目の前には、背中を丸めて困った顔をしている秘書の男性がいました。  誰がこんな広告を作ったのか、秘書の男性にはわかりません。ただ小さくなって社長に怒られているばかりです。 「そ、それではすぐに、広告を作った者に注意するようにいたします……」  秘書はハンカチを出して冷や汗を拭きながら、やっとの思いでそう答えました。  すると、次に社長は別のことで怒り始めました。 「それから、この間入ってきた新入社員! 仕事中に、関係のない動画を見て笑っていたそうじゃないか! どうしてもっと厳しく注意しないんだ!」 「は、はい、そちらも、すぐに伝えるようにいたします……」  秘書は冷や汗を拭く手が止まらないまま、なんとかまた答えました。  この会社の社長は、よく怒ることで有名な人です。  若い頃は真面目に一生懸命仕事をする人で皆から好かれていましたが、今は皆から怖がられています。何かあるとすぐに、「私は許可していないぞ!」と怒り出してしまうからです。  社長は、今度は窓の外を見て怒り出しました。 「なんだあの桜は! 私は咲いてもいいとは許可していないぞ!」  それを聞いて、秘書はとても驚きました。  桜に許可を出すなんて、そんなことは誰にもできません。  秘書はおそるおそる、社長に向かって言いました。 「あの、社長……桜の花に許可を出すのは、どんなに偉い方でもできないと思うのですが……」  それを聞いて社長ははっとしました。  そうです。社長でも、大統領でも、総理大臣でも、どんな人でも、桜の花に咲く許可を与えるなんてできるわけがないのです。 「私はなんて馬鹿なことを言ってしまったんだ」  そうつぶやいたとき、社長の中に、若い頃の思い出がよみがえりました。  若い頃、社長は営業の仕事をしていました。毎日いろいろな会社に行って、商品を買ってもらえるように説明をして回るのです。  ですが、若い頃の社長は、営業の仕事がうまくいっていませんでした。自分と同じ歳の人たちはどんどん商品を売っているのに、自分だけがずっと売れないままなのです。 「ああ、桜なんて咲かなければいいのに」  若い頃の社長は、公園のベンチに座ってそうつぶやいていました。  公園では、桜の花が満開になっています。もうすぐ会社ではお花見が開かれますが、なかなか商品が売れない彼は、お花見の席でも上司に怒られないか心配していました。  ですが、周りを見れば、たくさんの大人や子供が、桜の花を見てうれしそうにしています。彼はそんなたくさんの笑顔を見て、まずはもう少し頑張ってみようと、ベンチから立ち上がったのでした。  社長はそのときのことを思い出して、がみがみと怒ってばかりいた自分を恥ずかしく思いました。上司に怒られてつらい思いをしていたのは、若い頃の社長も同じだったからです。 「いつも怒ってばかりいてすまなかった」  社長は、目の前の秘書に向かって謝りました。 「しかし、この九十パーセントオフの広告はやりすぎだ。新入社員が、勝手に動画を見ていたのも良くない。私はもう怒っていないから、どうかそれだけは皆に伝えてくれないか」  社長がすまなそうな声でそう言うと、秘書は優しい笑顔でうなずきました。 「わかりました。きっと、皆さんもわかってくれますよ」  秘書が笑ったのにつられて、社長の顔にも少しだけ笑顔が浮かびます。そして二人は、とても晴れやかな気持ちになって、それぞれの仕事に取りかかりました。
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