69人が本棚に入れています
本棚に追加
/209ページ
急に未練のような、強烈な不安感に襲われた。変化の恐ろしさというのは、気持ちが落ち着き、安心を取り戻した後でふいに蘇るものだ。
茜は胸騒ぎがした。
彼女は離れの庵に居候しており、その期間は彼の従者達がぴったり番をしてくれる。夜更けには、康子も正臣も顔を見せに来る。
だけど、狂だけは茜の知らないところで捜索して、次はいつ来るのか分からない――。近くて、遠く感じる人だった。
(終わりが見えそうなのは嬉しいし、私の為に動いてくれてる狂を信じたい。でも……)
今の茜は体力的にも、精神的にも限界が来てる事もあり、ネガティブな感情が胸のうちで蛇の尾のようにぐるりと巡る。
(これで会話を終わりにしたくないよ……それだけだと心にぽっかりと穴が空きそう。もしもこれが最後の会話になってしまったら……)
そう思った瞬間、背筋にぞくりと寒気が走った。
――ずぶ。ずぶり。
考えないようにすればするほど、一人でいる恐怖が募る。
――ずぶ、ずぶ、ずぶ。
頭の中で、底無しの沼に沈んでいく感覚。
自分を連れ去ろうとした沼御前の姿が脳裏をよぎる。彼につけ狙われる生理的な嫌悪感。
その次は夢の中で見た、過去に生贄にされた花嫁たちの苦悶の表情。どんなに美しかろうと、死ねば、あとに残るのは醜い骸だけだ。
なんと不浄であることか。
寝てしまうと、開かない障子に血まみれ手形が浮かぶ夢も見る。
けして幸せではなかった、おのれの人生に対する呪い。怨嗟と。絶望と。生きている者への嫉妬。
「――!?」
白猫が茜の肩から落ちた。
進みかけていた狂が振り向いた。
「……っ」
――とても怖い。だからもう少し居て。
そう思った茜は庵から出て、彼の黒い着流しの袖をそっと引っ張ったのだ。恐る恐る口を開いた。
「まだ、行かないで欲しい……」
対して長い台詞でもないというのに、たったそれだけのことを言うだけだというのにとても緊張した。口の中がからからに乾いていく。
これから解決させようとしてるのに、足止めさせてしまっている。こんな事を言ってしまったら、我が儘に思われるのだろうか。
不安と焦燥に苛まれて、項垂れると……狂が次の台詞を言った。
心なしか、柔らかい声音だった。
「……桜は好きか?」
「えっ?す、好きだけど」
「――そうか、それなら良かった。此処は、妖(アヤカシ)達が集まるから、あの世の夢幻と繋がる事があって、季節外れの桜が現れる事も珍しくないんだ。全て解決したら……また迎えに来る。夢幻の桜が咲く景色は綺麗だぞ」
「……!」
妖(アヤカシ)達を従える家系だから、彼は美しいものも醜いものもすべて受け入れている。
そして。
(また迎えに来る、と言った)
次を約束してくれる言葉に、どうしようもなく安堵する自分がいた。
茜は顔を上げる事ができず、ぎゅっと両手を握りしめる。
胸がいっぱいになる。胸があたたかなもので満たされて、そのままあふれ出しそうになるほどだった。
彼は、こういう時に優しい。絶妙な優しさがあまりにも心地よくて、もっともっと甘えてしまいたくなる。
「……うん、待ってる。約束をすっぽかしたら許さないわよ」
「ふん。……服が彼の世の不浄な血で穢れてしまってるから、もう手を離してくれ。お前の身体にも悪いはずだ」
「うん……」
表現しがたい切なさもまた同時に感じながら、茜は深く頷き戸を閉めた。
* * *
最初のコメントを投稿しよう!