1650人が本棚に入れています
本棚に追加
46-3.ノースディア領(3)
「わぁ……」
私は雪が詰まった大樽を前に、感嘆の声をあげた。
暖かい部屋でしばしの団らんの後、雪が貯蔵されている部屋へ案内してもらったのだ。
見上げるほどの大きな樽がいくつも連なっていて、それだけで迫力がある。
「これだけあれば、砂漠の民もノースディア領の民も、水不足から解放されますね」
「定期的に補充は必要だろうが、幸いリバレイ領には大きな湖もいくつかある。雪の季節が終わっても問題ないだろう」
エルの言葉に私も頷いた。
リバレイ領の気候は厳しいけれど、水については潤沢な地だ。
雪と氷は溶ければ水になるし、エルの言ったとおり大きな湖だってある。しかも、とても美しいのだ。底まで見えるほどの透明度には驚かされる。
「水が確保できりゃ、作物を育てることもできる。食うものに困らなければ、金などさほど必要じゃない。暗殺を請け負う必要もなくなる。……皆、好き好んであんなことがしたいわけじゃないからな」
カミルを見ると、彼はどこか遠くを見つめている。
ふとした呟きだったけれど、そこに彼の本音が込められているように思えた。
人を殺めなければ生きていけなかった。それが彼らの現実だった。
なんて過酷なのだろう。
カミルの言うとおり、何の恨みもない人間を手にかけるなんて、誰だってしたくない。その後の罪悪感は相当なものだろう。いや、そんなものを感じる余裕さえなかったかもしれない。それほどまでに、彼らは辛く険しい人生を歩んできたのだ。
「過去は変えられない。でも、未来はいくらだって変えられるわ。これからは、たくさんの人を救えばいい。私はそう思うわ」
カミルやアシム、スードを励ましたくてそう言うと、彼らは驚いたように私を見た。そして、一様に目を細める。
「……ありがとな。俺、そういやあんたにまだちゃんと謝ってなかったな。あの時は本当に悪かった。このとおりだ」
アシムが深々と頭を下げる。スードも「申し訳なかった」と言って同じように頭を下げた。
「え、あの……」
動揺を隠せずにあたふたとするけれど、二人の真摯な気持ちが伝わってきて、私は嬉しくなる。
するとカミルが、優しい顔でこう言った。
「これから俺たちは、お前が大切に思うものを守る。俺たちにとって聖女は、何物にも代えがたい大切な存在だ。だが、レティシアが聖女だからそうするんじゃない。魔王やクラウディア国に誓ったから、というのも違う。レティシアがそう願うからそれに応えたい、それだけだ」
「カミル……」
カミルが一歩近づき、腕を伸ばす。
私はとにかく驚きで固まってしまい、もう少しで彼の腕に捕まるというところで、反対側から伸びてきた腕に捕らわれた。
「カミル」
「チッ。もう少しだったのに」
カミルの舌打ちに、エルがムッとした顔をする。アシムとスードは、やれやれと呆れた様子でカミルを窘めた。
「頭、人妻に手を出すのはダメだ。しかも、魔王が相手じゃ勝ち目がねぇ」
「なにをっ? お前は、俺より魔王の方がいい男だって言うのか?」
「そういう意味じゃない。愛し合う二人の間に頭の入り込む隙はない、とアシムは言っている」
「スード!」
口喧嘩を始める三人を見て、思わず笑ってしまう。
少々口汚い言葉が飛び交うけれど、本気で罵り合っているわけじゃない。むしろ、仲がいいという風に見えてしまうのだから不思議だ。
私が微笑ましく三人を眺めていると、エルの腕に力がこもった。
「これだから、レティシアを彼ら……特にカミルと会わせたくないんだ」
拗ねたような声が頭上から聞こえる。
私はそっと見上げ、エルに笑顔を見せた。そして、エルにしか聞こえないように小声で囁く。
「そんな風に不機嫌になってしまうエルを見て、嬉しいと思ってしまう私を許してくださいね」
「レティシア」
「私がずっと側にいたいと願うのは、あなただけです。エル」
エルはくしゃりと表情を崩し、眦を下げる。そして更に強く私を引き寄せると、皆に向かって言った。
「これからノースディア領を回ってくる。もちろんレティシアも連れて行くから、後はカミーユの指示で残りの作業を進めておいてくれ」
「え、おい! 魔王!」
カミルの叫ぶ声が遠くなっていく。
エルは私を連れて、貯蔵部屋を出た。エルの顔は、子どものような得意げな表情になっている。
「エル?」
「俺の側がレティシアのいるべき場所だ。いや、いてほしい」
エルはぎゅっと私を抱きしめる。
「あまり可愛らしいことを言うと、このまま邸に連れ帰って寝室に閉じ込めたくなってしまう」
「……っ」
真っ赤になった私の頬に唇を寄せ、エルが艶やかに微笑んだ。
最初のコメントを投稿しよう!