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1 絶望からの生還
絶望。
今の状況を一言でいうなら、まさにその言葉が的確だ。
アパートの二階。開け放した窓から部屋に入り込んできた、白煙。
少し遅れて、非常ベルが鳴り響いた。
逃げなきゃ。
手近にあったタオルで鼻と口を被う。
小ぶりのショルダーバッグにスマホと財布を突っ込んで、ついでに引き出しから通帳と印鑑を取り出した。
それから、卒園児たちがくれたイラスト集を最後に突っ込む。
窓の外の煙は黒くて、晴れているはずの空も見えない。
だんだんと焦げ臭さが鼻を刺激し始める。
玄関の鍵を開けて、外に飛び出した。
先程よりもツンとした臭いがキツくなる。
嘘でしょ……。
屋内型の通路は、黒い煙が立ち込めていた。
目頭が熱くなった。
──泣いちゃダメだ。冷静に、冷静に。
腰を落として、煙を吸わないように進む。階段まではあと少し。
──ガッシャーン!
突然下から聞こえたのは、何かが壊れるような金属の音。それに続いて、ゴオオという音がする。
ヤバい。
死ぬかも。
階段の踊り場には、炎の影。
きっとすぐにここは巻き込まれてしまう。
急いで部屋に引き返すも、ドアを開けてまた絶望した。
カーテンが燃えている。外の風が火の粉を吹き散らす。
ああ、もうダメだ。
そう思った瞬間だった。
「誰かいますかーー!?」
かすかな声が聞こえた。
「ここ、ここにいます! ここ、ここ! ……ゴホ、ゴホッ」
思わず大声を出し、煙で噎せる。
胸が苦しい。熱い。
でも、もし……
玄関にへたりこみながら、閉じてしまったドアを必死に叩いた。
──ここ、ここにいるんです!
「いるのか!?」
外側から聞こえた声に、涙がぶわっと溢れた。
ドアを開けようとノブに手を回す。……開かない。
──ガチャ、ガチャ、ガチャ
開かない、開かない、開かない。
熱い、苦しい、死ぬかも。
開かない、開かない、開かない、開かない。
「落ち着いて! 俺は絶対あなたを助け
ます! だから!」
その声にはっとして、手を止めた。
ガチャガチャ、ガチャガチャ。
向こう側からドアノブをいじる音がする。
死ぬ、死ぬ、死ぬ。
助けて、助けて、助けて。
「黒岩、いけるか?」
「さっきのヤツで歪んだみたいです」
「仕方ない……」
ガチャガチャ音が止まる。
止めた……諦めたの?
過呼吸になる。空気がうまく吸えない。
熱い、熱い。
熱い、熱い、熱い。
死ぬ。
死ぬ、死ぬ。
死ぬ、死ぬ、死ぬ。
煙で目が痛い。
鼻も痛い。
全部痛い。
身体中が、全部痛い。
助けて。嘘つき。
こっちは人生の終わりだっていうのに、今さっき言ったことを裏切れるなんて、なんて性分の悪い人たちなんだ。
死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
──ガッシャーン!
「1名確認! もう大丈夫ですよ」
オレンジ色の逞しい腕。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「過呼吸! すぐに運びます!」
「黒岩、中はもうダメだ! 外いけるか?」
「はい!」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「しっかり掴まってろよ、おねーさん」
──それから後の事は、よく覚えていない。
気が付けば病院のベッドに寝ていた。
しかも、無傷で。
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