Lesson.9

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Lesson.9

 広いとは言えない洗面所、美咲と二人きり。  別にそれだけならいつも通りのことで特筆することではないのだけれど、いつもと違うのは圧倒的に距離だ。   息がかかりそうな、という形容詞がぴったりな距離。今ならどんな小さな呟きでも聞こえてしまいそうだ。  幼なじみとしてほとんどの時間を美咲と過ごしてきたけれど、こんなに至近距離で向き合ったのは初めて。  造形の整った顔が間近に迫り、う~んとかえっととか可愛らしい声を洩らしながらメイク道具が顔の上をかすめていく。  今はブラシだったりファンデーションだったりするからまだいいものの、先程迄は直接指で顔をさわられていたから今よりもずっと緊張がひどかった。 少しひんやりとしたしなやかな指が自分の顔の上を滑っていく感覚が未だに忘れられずにいる。  当たり前であるがとてつもない緊張と胸のドキドキが紗月を襲っていて平常心でいられるわけもない。ストップストップと言って今すぐにでも離れたいが、代わりにやってもらっている手前流石にそれはできない。  一ミリも落ち着かない紗月とは裏腹に、美咲は真剣な表情でメイク道具を自分の一部のように操っている。  動かす手も、それを見据える表情も一切の動揺は見受けられない。その落差がまた大人っぽいなと思わされる。  その手つきはやたら慣れていて、そのままメイクアップアーティストか何かになればいいんじゃないか、なんてことまで考えてしまうのだった。 「はい、完成。」  そういわれて彼女が手にしていたブラシやら何やらを置いたのはそれから十分ほど経ってから。  ずっと体が強張り鼓動が早かった紗月からすれば三時間ほどにも感じられたのに対し、集中していた美咲からすれば体感三分ほどだった。  未だに体に緊張を残す紗月はそう言われ、若干ぎこちない動きで鏡を見る。そこにはいつもより若干雰囲気の明るくなった自分が居た。  ノーメイクのときより、先程迄自分でやっていたときよりもずっと魅力的に映っている。  メイク一つでここまで変わるのか、と驚きが隠せない。至極単純な話だが、もっとメイクが上手く成れば外見だけなら美咲の隣に並んでいてもおかしくないくらいにはなれるのではないか、という思考になってしまう。 「取り合えず今あるものだけならこれくらいかな~。紗月が持ってるの、全体的に色が濃いからそんなに大胆には出来なかったんだけど…。」  と何故か若干申し訳なさそうに言う美咲。 「ううん、あたし一人ならこんなに上手くできなかったもん、大助かりだよ!」  とカッと歯を見せて笑う。鏡に映る自分がまるで自分ではないような気分で意識しなくても勝手に口角が持ち上がる。 「今日はそれで行くとして、今度全部買い直しに行こうか?」  ウキウキとした気分で学校に行く準備を始めようか、何か言われるかも、なんて考えていた紗月に突然言葉がかかる。   言われた意味が分からず思わずえ?と腑抜けた声が飛び出た。 「チークにしろリップにしろ、学校にしていくには全体的に色が明るすぎるんだよね。だから、これから学校にメイクしていくならもう少し色味が落ち着いたの買ってきた方がいいかも。」  と洗面台に置かれたコスメを一つ一つ手に取って確認しながら。  正直そういうことには疎い紗月としては、どういうものが明るすぎてどういうものがちょうどいい塩梅なのかがまるで分らない。  その旨を美咲に伝えると 「まぁ、初心者なら仕方ないよね。今度のお休み、一緒に選びに行こうか?」  と笑顔を浮かべながら返してくれる。  そういう傍らで手を動かしコスメの類を棚に片付け、それとなく紗月の背中を押して朝食を食べるように仕向ける。 「うん!……あとさ、服も見ようかと思ってるんだけどそれも一緒に見てくれない?」 「もちろん。何があったのか分からないけど、年中ジャージだった紗月がおしゃれに興味を持ってくれたみたいで嬉しいよ。」  と笑顔を返される。  その言い方は完全に響と同じように、『好きな異性ができた』と思われているようだ。  勿論それは違うのだが、かといって事実を本人に言うのは流石に羞恥が勝り出来ない。  とりあえずは、このままでいいかな…なんて。新たな約束を交わした喜びと、何とも形容しがたい複雑な気持ちを抱えたまま朝食の食パンを齧るのだった。
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