1、料理人と雇い主

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1、料理人と雇い主

 あれは完全に売り言葉に買い言葉だった。  自分だけの安全な城というか領域である調理場に駆け戻り、冷静になれた今だからそう思えるのかもしれないが。  優秀で顔も良い年下である雇い主に、ただ運良く引退を考えていた前任に拾われて料理人として仕事を引き継いだだけの自分が、まさか雇い主からそういう対象として見られていたなんて冗談だと思うだろうが。  どれだけ年齢差があると思うんだ。  好みから遠くかけ離れている相手から言い寄られたら一般的には嬉しくはないだろうが、自分は初めてご挨拶したあの時から秘めやかに雇い主を好ましいと思っていた。  思っていたからこそ、どうしてこうなってしまったのかと軽く絶望すらしている。雇い主から使用人以上の気持ちを持たれるような行為をした覚えがないのだから。  自分はただ、手掛けた料理が好みの味付けだった際に、ふわりと溢れるような可愛らしい笑顔を浮かべる雇い主を、遠くから眺めているだけで充分満足していたのだ。直接そのお顔を拝見しなくても、他の使用人から漏れ聞こえる微笑ましい噂だけで良かった。  あえて言葉にするならば、孫を愛でる祖父母のような気持ちに近い気持ちを雇い主に抱いていただけで、それ以上の下半身が関係するような邪な思いを幼い雇い主に対して抱くなど、使用人として失格であるとも思っていた。  そもそも、それ以前の問題が存在する。  雇い主は先代様から商会の跡継ぎとして様々な教育を受けていたはずだ。雇い主ご本人は良くても、ご自分の次の跡継ぎを選ぶ際にどう対処されるおつもりでいるのだろうか。おそらく指摘したらものすごく気楽に、分家筋あたりから能力のある方を養子に取るとか言い出しかねない。切実に止めていただきたい。  先代様の胃薬がまた増加するじゃないですか。  元々あまり食に興味を持ってくださらなく食が細い先代様。前任の料理人と共にどうにか先代様に完食していただきたいとあの手この手と切磋琢磨して調理した日々は充実感はありましたが、同時に虚しさもございました。処方薬の関係上、作れる食事内容には様々な制限がつきまとっておりました。制限があるからこそ沢山の試行錯誤をいたしましたが、前任や自分の技量では力及ばず味気ないものばかりお出しするしかなかったのです。ですので、先代様が軽食以外を完食されたことは非常に稀で数えられる程度。稀に完食された際には、前任とふたりひっそりと喜びを分かち合っていたのです。お分かりになりますか? この悔しさ。情熱や技術不足だけでは如何ともし難い口惜しさ。  一生涯のパートナーとして先代様たちに紹介される? それも同性の老いぼれかかっている使用人だった存在を? 運悪く養子に選ばれてしまった方にとっても、ここまで立派に雇い主を育て上げた先代様たちにとっても寝耳に水でしょうに。どう考えても憐れで不憫だと思うのです、関係者になってしまうだろう皆様が。  最悪の場合、幼い雇い主を誑かしたといわれなき誤解をされるだろう自分は先代様からの信頼や仕事先を失う程度で済むとは思います。自分ひとりが生きるだけでしたら、そうなったとしてもどうにでもなるので別に悲観することもありません。  ですが、残念ながら今現在、自分を直接雇っているのは雇い主である坊っちゃん本人なのです。料理人である自分についての処遇などの決定権は、雇い主である坊っちゃんが握っていらっしゃるのです。  ですので、雇い主以外の周りから自分がどのような扱いをされても、雇い主である坊っちゃんだけが呑気に笑顔で大丈夫だよ~とか言いそうです。何ひとつ大丈夫ではありません。大丈夫なのは坊っちゃん、ただおひとりだけです。その光景が鮮明に想像出来てしまうのがつらいです。  坊っちゃんのそういう所は嫌いではないですし、個人的に可愛らしいとも思っておりますが。  はぁとため息をひとつ。  好意を持たれていたことが、嬉しくないわけじゃないのです。  嬉しい気持ちはもちろん存在しているのです。これでも密かに坊っちゃんに片想いをしておりましたし、胃袋だけでも掴めたらいいとも考えていました。  坊っちゃんが好きそうな食事を作り提供して、美味しかったまた食べたいと言われるだけで良かったのです。それだけで自分は満たされていたのですから。  それ以上を雇い主に求めるのは、使用人としての役割を越えすぎてしまうからです。使う側に立ち続けなければいけない上位の支配者と、使われるものである下位の使用人の間に、恋愛要素なんてものは必要ないのです。業務中に親愛以上の感情は邪魔でしか無いのです。  だというのに、どうして受け入れてしまったのでしょう。  可能であるならば、過去の自分に伝えておきたい。  雇い主の健康的な食育だけが自分の仕事ではないらしい、と。  輝かしい未来が待ち受けていたうちの大事な大事な大事な大ッ事な雇い主に、絶妙に使い勝手の悪く斜め上の中途半端な知識なんてものを刷り込んでくださったお相手様を草の根分けてでも探し出し丁重に報復……報復してはいけませんね。もしも坊っちゃんのお仕事相手でしたら、坊っちゃんにご迷惑をおかけしてしまいますからね。そこはちゃんと自重しませんと。分別のある年長者ですので。  ま、それはそれとして。  きっちり確認は必要かとは考えておりますが、もしも該当する方が下半身を少しばかり使い物にならなくしても問題のない方でしたなら、折角ですから自分が持ちうる手練手管で丁重に心を込めてお礼をして差し上げるくらいはいたしましょう。  ただ自分は既に坊っちゃんに身も心も捧げてしまっている状態ですので、わざわざ自らの身体で篭絡する選択だけは出来ませんね。坊っちゃんをそのような些末なことで泣かせたくもありませんし、中途半端な知識を振りかざしていらっしゃるような方はたいてい何かしらの下半身のご病気を持っていたりしますから自衛いたしませんと。  ああ、折角ですから古馴染みでまだまだ現役でいらっしゃる方々に少しばかりオイタが過ぎるのでとお願いすることを検討いたしましょうか。再教育を好まれる方はそういった機会が滅多に無いので、ギラギラとした視線で虎視眈々と狙っていらっしゃいますし。被害拡大を防ぐためにも、必要悪というものはあってしかるべきだとも思うのですよ。  湧き上がるやり場のない苛立ちを叩きつけるが如く、塊だった肉を包丁で思う存分叩き切ります。戴き物のとても質の良いお肉だったので塩のみで美味しくじっくり焼こうと思っていましたが、問題ありません。良い塊肉というものは、刻んでから繋ぎを混ぜこんで整形して焼くのも美味しいですし、適度な大きさに丸めて焼き目をつけてからたっぷりのお野菜と一緒に煮込み料理にしても充分美味しいのです。  せめて今だけでも、無心になりたいのです。  うっかり昨夜のことを焼いている作業中に思い出したくないのです。遠火でじっくり焼くどころか燃え上がらせて炭にしてしまうには惜しい質のお肉だったんです。坊っちゃんには美味しく召し上がっていただきたいですし。昨夜のいたしてしまった現実は無くなりませんが、良いお肉に罪はありませんからね。
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