コーパスクリスティー

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コーパスクリスティー

僕は夢の中で、どこか遠くの街にいた。ビルは崩れ落ちて、アスファルトの路面はところどころめくれて、あちこちにガラスが散乱していた。瓦礫の間を縫うように逃げ惑う人々の姿が目についた。悲鳴を上げながら走っている人もいる。でもそれは、悪夢に彩られた遠い街の喧騒に過ぎなかった。 僕のいる場所、空は晴れ上がっていて星がきれいに瞬いていた。夜が明ければこの廃墟も復興していくに違いない。 「ここはどこ?」 僕がたずねると隣を歩く誰かが言った。 「ここがあなたの街だよ」、という答えは妙に嬉しかったけれど、すぐに疑問も湧いた。「どうして、こんなところに来てしまったんだろう?」、と。「あなたが望んで来たんじゃないの」、と彼女は答える。 「僕はここに来ることを望んだりしないよ」、と僕が反論すると、「そんなことはないはず」と彼女は言う。 「だって、この街はあなたの記憶の中にある街でしょう」、と。 そう言われても、僕には何の記憶もない。 「僕はずっと一人で暮らしてきたんだよ。ここには誰もいないはずだ」、と僕が抗議しても、彼女の言葉は変わらない。 「それじゃあ、あなたはどうしてそんなことを言うの」、と彼女が聞いてくる。 「君が変なことを言うからだ」、と僕が言い返す。 「私はただ、事実を告げているだけ」、と彼女は冷静に言う。 「君は誰だい」、と僕がたずねたら、彼女は黙って微笑む。 「君は一体、なんなの」、と僕が聞くと、彼女もまた首を横に振る。 「私にも分からない」、と。 「でも、私たちは二人とも、同じ人間で、同じ記憶を持っている」、と彼女は言う。 「どういうこと?」、と僕が聞き返したら、彼女は困った顔をする。 「どういう意味か、自分で考えてみて」、と彼女は言う。 「君の言ってることはよくわからない。もっとわかりやすく説明してくれないか」 「難しいことを言わないで」、と彼女は言う。 「簡単なことだろ。君は自分が何者か知らないと言うけど、僕は知っている」、と僕が言うと、「違う」、と彼女は首を振る。 「違わない。僕は僕を知っている。僕は僕以外の何者でもない。他の誰でもない。だから、君が僕を『あなた』と呼ぶなら、そうなのかもしれない。だけど、僕はそんなふうに呼ばれたくない。そんな呼び方は嫌だ。だって、そんなのはおかしいじゃないか。僕は僕なのに、まるで僕だけがおかしいみたいに聞こえる。そんなのは間違ってる。僕が『君たち』なら、君は僕で、僕は君でしかない。君は僕を、僕だけを、『あなた』と呼べばいい」、と僕が言ったら、彼女はまた笑う。 「そんなことはありえないのに、どうしてそんなこと言えるの。そんなのはおかしい。やっぱり、あなたは頭がおかしくなってるのね」、と。 *** 目が覚めた。時計を見ると朝の七時前だ。まだ眠い。 昨日は深夜まで起きていたから寝不足だ。 ベッドの上で寝返りを打つ。部屋の中は薄暗い。カーテンの隙間からは光が差し込んでいる。雨は止んでいるらしい。 枕元に置いた携帯電話に手を伸ばす。液晶画面には不在着信の表示があった。 発信者は、姉だ。 掛け直すと、すぐに繋がった。 スピーカー越しに姉の声が聞こえてくる。 姉は泣いていた。 電話の向こうで姉は何度も繰り返し謝っていた。 私は姉の言葉を聞き流しながら、窓の外を眺めていた。 外では激しい風が吹いている。 姉が泣き疲れて眠りにつくまで、私は何も言えなかった。 姉は最後にもう一度ごめんなさいと呟いて、電話を切った。 その瞬間、私の中の何かが壊れた。姉の言葉を頭の中で反すうする。 ――あの子は、もう…… そんなの嘘だと心の中では分かっていた。 姉がそんなことを思うわけがない。 でも、私が姉の立場ならきっと同じことを考えてしまうと思う。 だから、私は泣かなかった。 泣くことができなかった。姉は悪くない。悪いのは全部、犯人のせいなのだ。 私にできることは一つしかなかった。 姉の代わりに、怒り続けることだけだ。 その日の夜、姉は自殺した。 遺書はなかった。 ただ、姉は眠るように息を引き取った。 自殺の理由は、最後まで分からなかった。 *** 「この辺りでいいですか」 「えぇ、ありがとうございます」 タクシーの運転手に礼を言いながら、私は車を降りる。 夜の八時を回った頃だというのに、空はまだ明るい。 「気をつけて帰ってくださいね」 「はい。またお願いします」 タクシーのドアが閉まる。走り去る車を見送ってから、私はマンションの中へと入っていく。 オートロックの玄関を抜けて、エレベーターに乗り込む。 「……」 ポケットの中の携帯端末を取り出す。 起動させて、ブラウザを立ち上げる。 検索するのは、今朝の記事。 「……ふぅん」 記事を流し読みして、溜息をつく。 くだらない。 「くだらないわね、本当に」 こんなものは、ただの娯楽小説にすぎない。 「……」 だが、これが現実だということも、また確かだった。 姉が死んだのは、つい先日のことだ。 姉は死んだ。 殺されたのだ。 「馬鹿じゃないの」 私は吐き捨てるようにそう言った。 「……」 部屋の前で立ち止まる。 鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。 ガチャリと音を立てて、錠が開く。 「おかえり」 部屋に足を踏み入れた途端、声をかけられた。 視線を向けると、そこには男が立っていた。 「……ただいま」 男の顔を見て、答える。 「ご飯にする? それともお風呂?」 「……」 男の問いかけを無視して、奥の部屋へと向かう。 「おいおい、無視はないだろう」 男は不満げに言って、こちらの後を追ってくる。 「……」 黙ったまま、私は部屋の隅にあるクローゼットを開いた。 中には、着替えや化粧道具が入っている。 「何度言えば分かるんだ。俺は君の夫なんだぞ」 「……」 「まったく、これじゃあどっちが妻か分からないな」 「……」 「君が俺の妻になってくれるというなら、もう少し仕事はセーブしてもいい」 「……」 「どうだね。そろそろ考えてくれたまえよ」 「……」 「おーい」 「……」 「もしもし」 「……」 「……」 「もしもし」 「……」 「もしもし」 「……」 「もしもし」 「はい」 「おはよう」 「……」 「今日は良い天気だよ」 「……」 「ほら、雲ひとつ無い青空が広がっている」 「うん、いい日和だ」 「そうだね、とてもいい日和だ」 「……」 「……」 「ねぇ」 「うん」 「昨日も聞いたけど」 「ああ」 「どうして、君はいつもここに来るの?」 「……」 「それはこっちの台詞だ」 「ここは僕の家でもあるんだけど」 「ここだって、お前の家だろう」 「そういうことじゃなくてさぁ……まあいいか」 「それで、今度は何の話だい?」 「聞きたいことがある」 「何のことかな」 「お前が殺した女についてだ」 「……」 「彼女は、誰を殺したと言っていた?」 「さて、何のことやら」 「惚けるつもりかい」 「まさか。僕は彼女の言う通りにしただけだよ」 「彼女だって、僕に訊かれれば、きっと同じことを言うはずだ」 「それに、そんなことを知って、一体何の意味があると言うのか」 「意味はあるさ」 「彼女が何を考えていたかを知ることは、彼女の無念を晴らすことになる」 「そして、それができるのは、この世界でただ一人、僕しかいないんだ」 「ならば、それを為すのが、残された者の義務というものじゃないかな」 「違うかね?」 「……」 「どうしたの、黙り込んでしまって」 「別に」 「そうか」 「ところで、今日の夕飯は何が良い?」 「何でも良い」 「駄目だよ、そんな答えは」 「もっと自分の意見を主張しないと」 「何を食べたいか、食べたくないかをきちんと言わなくちゃ」 「分かった」 「カレーライスが食べたいな」 「カレーライスね」 「よし、任せておきたまえ」 「美味しいのを作ってあげるから」 「期待しているよ」 「楽しみにしておいて」 「……」 「……」 「……」 「……」 「あの、ちょっと良いかな」 「何だい」 「そんなに見つめられると恥ずかしいんだが」 「あ、ごめん」 「で、何の用なのかな」 「その、あんまり見つめられ続けるのも困るというか」 「だって、仕方がないんだよ」 「だって、君が目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうから」 「どこへも行ってないよ」 「そんなことはない。だって君はすぐそばにいたのに、いつの間にか消えているじゃないか」 「だって、そんなことを言われても、どこにも行きようが無いし……」 「とにかく、今はじっとしていてくれないと、私としても色々と都合が悪いので」 こうして嘘つきな女であり罪作りな男でもある『私』は相方に毒針を刺した。交差したアームがまだ暖かい肉塊を炉に投げ込む。そしてスマートスピーカーが本日の死者を読み上げる。弔う間に後継者が準備される。 本日も快晴。半径二千キロ以内に敵影なし。ただしレーダーの生産に必要なガリウム砒素の在庫が乏しい。大半は耐用年数を超えている。危険を冒してまで奪うか朽ちるまで生存者を待ち続けるか。都市は逡巡しながら今日も原罪を保存する。咎のない有機体Aを処刑し、Bは負わせた罪を懺悔する。そしてAが生まれBを処刑する。過ちを繰り返すことで都市は人であり続けようとした。 殺し合う日常に感情が鈍磨したころ。街を取り巻く安全地帯に人影を見た。 ちょうどその時、私は照準器に夫を捉えていた。赤いフォントが割り込んだ。 「こんな時に!」 私は発煙筒を夫に投げ「命拾いしたわね!」と捨て台詞。 生存者はボロ布を被った母娘だった。 二人は私を見ると駆け寄ってきた。母は娘の肩を抱き震えていた。その手は小指がなかった。彼女は私にしがみつくと泣きながら訴えた。 「この子は殺さないで下さい!私にできることなら何でもしますから!!」 「私は殺人鬼じゃない。落ち着け」私はそう言うと彼女に手を添え銃を下げた。 すると彼女は私の胸に頭を預けた。その顔は涙でグチャグチャだった。そして私達は互いを見合った。そこでようやく私と彼女は目が会ったのだ。私は思わず言葉を失った。そこにいたのは、かつて同じ時間を過ごした幼馴染みだった。私は彼女を知っていた。彼女は、あの時、目の前にいる少女と同じように泣いたのだ。私は、私は………………。 「お腹空いてる? よかったら家に上がっていって」 気が付くと私の口から自然とそんなセリフが出てしまっていた。しかし母娘の脇を機銃掃射が走った。振り向くと私の夫が小銃を構えていた。 「やめてあげて!」 「いいや、この親子は殺す! 俺はお前と殺し合っては再生する関係を続けてきた。罪なき伴侶を殺し、その過ちを懺悔し、新たな伴侶を迎える。この美しい円環に部外者が入ることは許されない。ループが汚れる。だから殺すのだ」夫はそう言うと私に銃弾を放った。それは正確に心臓を貫き私の体は地に伏していた。 薄れゆく意識の中で、ふと疑問が過った。「だからと言って私を殺すなんて…」 夫は答えた「過ちを許し合う日々にどうして罪悪感が生じるのか、私は悩み、回答を見出したのだ」と。 娘を抱きかかえ、これ見よがしに披露する。「この子のためなら何でもするんですね」、と母親が言う。 「そうだ。殺さずともすべてが許される。今日から俺が家族だ。これが愛の証明なのだ」 夫はそう言って立体印刷機を操った。スプールを眺めてうわはは、と笑う。 ジョブをキャンセルしなくちゃ。私はあれを止める権限と義務がある。 渾身の力をふしりぼって上体を起こし、送信体制を整える。 夫は私のマイクロ量子脳チップを撃ち抜…。
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