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1.とんでもない部屋3連後【1】
自室で目が覚めた時、見慣れているはずの天井を暫く確認し続けずにはいられないことがある。ランダムに連なる木目の板、交差する梁、透かし彫りの欄間。
あぁ……、大丈夫、いつも通り。
そう思ってため息をつく。思わず目を閉じると、不自然過ぎる真っ白な部屋の景色が脳裏を過った。見覚えのない……いや、見覚え、ない……か?それはおかしい。本当に見覚えがないなら、こうして脳裏に浮かんでくることがあるだろうか。
不意に嫌な予感がして体を反転させながら身を起こす。思い出した。こういう心地で起きる時に限ってとある不可解なことが起きることを。
恐る恐る枕に手を置いて、そっと持ち上げる。が、ちらっと見えたその下の布地に、持ち上げたばかりの枕を叩きつける。
「また……!!なんなんやこれ!」
既に前に2回あったことだから、もうちゃんと確認しなくても分かる。フリルレースのついた白い腰下サロンエプロンだ。念のために記しておくと就寝前にこんなものを寝押しした記憶はない。
そもそも寝押しではあまり綺麗に皺は伸びないし折り目も合わないことがあるから、大して時間もかからないんだしやるならちゃんとアイロンをかけたほうが、違うそうじゃない。現実逃避のあまり思考を逸らそうとしてしまっている。
つまり、そう。寝て起きたら枕の下に明らかに女性ものと思しきサロンエプロンが敷かれている。これで3度目。一体何がどうなったらこんな現象が起きると…?誤解される未来しか見えなくて非常に困る。
幸い、生活リズムの違う自分は離れに住まわされている。基本的な身の回りの支度は自分でやっているので、早々に問題になることはない……はず。そうであってもらわなくてはいけない。ちょっと言い訳が考えられそうにない。
………とりあえず片づけよう。
寝具と……あと、そのエプロンも。
何も疚しいことをしているつもりはないのにどうしてこんな気持ちにさせられなければならないんだろうか。苛立ち紛れにやや力任せで押し入れに寝具の類いを収納してしまう。広くなった畳の間を後にして顔を洗うために廊下に出る。
踏み出した足の下で板張りの床がきぃ、と音を立てた。
世の中には鴬張りの渡り廊下というものがあって、忍び歩きをする者を炙り出す警報器としての役割があったというが、これはそんなにいいものではなくて。老朽化した板同士が軋んで限界を訴えているものだ。今の俺があんまり不用意に体重をかけようものなら踏み抜いてしまうかもしれない。
少しでも下を向けば顔の前に降りて来る頭髪を軽く手の中に集め、目の前にある鏡の前に置きっぱなしのクリップで簡単に留めてしまう。正直、何をするにも邪魔な長さだ。
それでもこうしているのは「お前は少しでも顔を隠せるほうがいい」と言われたからだった。俯けば顔に影が差し、流れてきた髪で表情が隠れ、目を伏せれば少なくとも大人しそうに見えるだろうと。俺にその気はなくても、どうやら攻撃的な顔つきになっていることが多いとのことだった。
髪型くらいでそれが多少なりとも軽減されるというのなら、従うしかない。何かあったら顔を伏せろ、隠せ、ということらしい。それで争いが避けられるならそれに越したことは無い。
洗面台でやることが終わったら、クリップを外して鏡の前に戻す。頭髪を適当に手櫛で整えてから頭を振る。……今日は特別変に寝ぐせが付いているわけではなさそうだから、これで大丈夫か。
使用済みのタオルを手に、一度母屋に立ち寄って簡単に食事を済ませてから……着替えて走りにでも行こう。
休日の午前中。
まだそんなに人通りが多いわけでもないのでランニングに適している。頭を空にして走ることで、とりあえずやるべきことはやってる、という気持ちになることができる。それが果たして褒められることなのかは分からないけど、少なくともこうしていること自体のすべてが無駄になるわけではないはずだ。
「なんでそんなマイナスに振り切ってんのー?」
つい最近、そんな指摘を受けたような気がする。あれは何の時だったか。
あまり物事を悪く考えるのはよくない。それは確かで。だから自分なりに、後ろ向きになりすぎないように気をつけているつもりではある。ただ、まぁ……元来ネガティブなんだろう。
「アヤトーー!!」
大声で俺の名を呼ぶ声が後ろからしたのを合図に唐突に足が止まった。
響き渡る声量に普通に驚いたのと、俺のことをこんな風に呼ぶ人なんていただろうかという疑問が同時に襲い掛かってくる。
いや、特別珍しい名前というわけでもないし、偶然同名ということもありえるが、しかし。今ここには大して人がいない。
視界を遮る髪をかき上げて振り返りつつそちらに目をやると、こちらに向かって手を振る人物と目が合った。
750ccの大型バイク。
日光を受けて強く輝く並列4気筒のエキゾーストパイプが足元を走る、いかつい見た目の「カワサキ Z900RS」が後ろから追走してきていた。タイガーカラーのそれは側車が取り付けられており、声の主である緩くウェーブの掛かった長髪の少女はその側車から身を乗り出すようにしてこちらに尚も手を振っていた。
バイクの本体に跨っているのはもう少し年上らしい小柄な女性だ。体格の割には相当大きな機体に跨っているが随分乗りこなしているらしく、その姿に不釣り合いな印象を受けることはない。
その大型バイクは近くまで来て幅を寄せ停車すると、運転していた女性はメットを外して軽く頭を振った。黒髪ショートヘアでさっぱりとした雰囲気は男性でもおかしくないほどだったが、その骨格は紛れもなく女性のものだ。
知っている、と思い出した。
俺は、この人たちを知っている。
ショートヘアの女性はレナ。そして長髪の少女はミソラだ。こちらを見たレナは少し目を細めて口を開く。
「アヤト、久しぶりだね。わけわかんないところで会ったぶりだから、久しぶりって言っていいのかも分からないけどさ。」
「レナさんに、ミソラさん……ですよね。よく後ろから気づきましたね。」
「もう立ち直ったか?アヤト。心配せんでもおぬしの下半身のことh」
「ミソラァァア!!!」
………。
耳を劈くレナの叫び声に掻き消されてはいたが、俺の………は?
「す、すまない、アヤト。今のは気にしないで……ほらミソラ、アヤト真っ青になってるじゃないか!」
「おぉ!すまんすまん!励まそうと思っただけなんじゃ!往来でする話しではなかったの。」
密室でもあかんやろ。
いやそういうことでもないし!
と思ったが全身どころか声帯まで凍り付いたようで何も言葉にならなかった。今のはなんだ、と思うと同時に、絶対にその先を考えるなと警告する自分がいる。
「あ……まぁ、その……と、とりあえず。」
あたふたしながらミソラを嗜めるレナと、悪びれる様子なくからからと笑うミソラ。あぁ、相変わらず仲の良いふたりだな、と思わずにはいられない。何か無性に羨ましくなると同時に、もう少しそんな様子を見ていたいという気持ちに駆られて、何かないかと言葉を探る。
「え、っと……ふたりとも、お茶していきますか?」
くらいしか思いつかなかった。
しかし、そんな俺の言葉にふたりは顔を輝かせて振り向く。
「それは助かるよ。そろそろどこかで休みたいと思っていたところなんだ。」
「この辺の店はどこも高そうじゃからのぉ。どうしようか悩んでいたところなんじゃ。」
確かに「この辺りで」となると難しいかもしれない。うっかり観光向けの店に踏み込んだりしたら、想像以上に金銭を請求されるはめになってしまう。
「ボロい離れですが休むくらいならできますよ。
途中までバイクの乗り入れもできますから、あとで駐車場ご案内しますね。」
「あぁ。あとで、っていうのは?」
「俺、部屋に何も置いてないので。すぐ向かいに和菓子屋がありますから先にそちらへ向かって下さい。俺は一度戻って着替えてから行きます。」
理由は分からないが、そこの店員は何故か俺を贔屓にしてくれている節がある。近所どころかすぐ目の前にあるレベルの店舗なので、どうしても、と乞われてからはたまに立ち寄るようにしている。過剰な歓待を受けることもあるのでどうしようかと思うこともあるが、こういう用途がある時には使わせてもらった方が良いだろう。
「後から彩人が来ると店員に伝えて下さい。面識があるので……たぶんそれなりのサービスが受けられると思います。」
「これは……VIP対応というやつじゃ、レナ!急いでいくぞ!」
側車の上で上下にぴょこぴょこ跳ねるミソラに向かって「急いで行っても対応は変わらないよ」と苦笑しながらレナは再びメットを被る。
「じゃぁ、アヤト。また後で。ゆっくりでいいよ!」
そう言ってこちらに向かって軽く手をあげるとゆるやかにバイクを発進させる。
バイクに乗って、ふたりで旅をしているとは聞いていた。
側車付きのZ900RSがエンジン音を響かせながら離れていく。
彼女たちにとって、多分それが何者にも代えられない、かけがえのない時間だからこそ、あんなにも輝いて目に映るのだろう。そう関係の深くない自分でさえ、できるだけ長く目に留めていたいと思う程に。
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