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安堵したのは間違いだったかもしれない。
私の目の前にいるのは、丈の長い貫頭衣を着た人間大の蚯蚓のような生き物だからだ。
本やゲームに出てくる爬虫類系の種族などとも違う。
「驚いただろう。儂の姿を見ても声を上げなかったのはそなたが初めてだ。そなたは異世界人なのに、この世界に現れた時にも落ち着き払っていたと聞いている。よほど肝がすわっているのだろう」
「いや、びっくりしすぎて何をすればいいのか忘れてしまったんです」
「はは、正直だな。儂の名はムドゥ。儂が元居た世界の名も本名も、多分理解できないし聞き取れないだろうから省略する。単刀直入に話そう。まず、そなたがこの世界で生きてゆける道筋ができるまでは、最低限の衣食住は保障される」
ここは天国かもしれない。
私は怠け者なので、そうやってのらりくらりと暮らせるならば異世界万歳だ。
「そなたは前の世界で何の職業に就いていた?遊んでいられると思っているなら放り出すぞ」
いきなりぶっとい釘を刺された気分だ。
「書家……と言ってもきっとわからないですよね。うーん、どう説明すればいいか。とにかく文字をきれいに整えて書く仕事をしていました」
「祐筆か!それならば大陸中で優遇されるぞ」
「え?いや、そんな知識は私にはありません、政治などには全く関わっていませんからお役には立てません」
中世あたりの生活水準で文字だけを書いて暮すには、ある程度の地位があって裕福でないと難しいだろう。
庶民でも勉強ができるあの世界の仕組みは、どうにも説明しにくい。
「謙遜しなくとも良い。この世界のどの大陸でも識字率が大変低い。中でもここハルトラム国の文字は習得することも、整えて書くことも難しいのだ」
日本語より難しい言語だろうか。
そもそもこうやって会話はできても、文字までが理解できるとは思えない。
「ムドゥさま。私の持つ技術はひどく古いもので、きっと私がいた世界でしか通用しないものです。でも、難しい言葉と聞けば心が浮き立ちますね」
「この部屋の壁を見よ。全て文字だ」
壁の模様だと思い込んでいた。
そう言われてから見ると、頭の中に言葉の意味が流れ込んできた。
何も与えられなかったと思っていたが、私にとっては一番大事なスキルをもらったのかもしれない。
「ちょっと失礼します」
私は壁に近づき、文字に手を這わせた。
腹痛をこらえ、二日酔いにうめく蚯蚓のような文字だと思ったが、領主の前ではちょっと言えない。
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