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3ステージ目が始まり、最高潮に盛り上がる凄まじい熱気のフロアから離れると、後ろ髪を引かれながら会計を済ませて店を出る。
「今日が木曜じゃなければなあ……」
瑠美はあからさまな溜め息を吐き出す。なぜなら明日は朝から会議があり、帰りは社内の飲み会があって、面倒なことにその飲み会の幹事を任されているから。
なかなか来ない旧式のエレベーターに見切りをつけると、二重のガラス扉で仕切られた階段に目を向けた。
四階建てのビルの地下一階、元々キャバレーだったのを居抜きで使っているらしく、経年劣化はいい感じにアンティークな雰囲気を醸し出し、独特の味がある。
「階段ですらお洒落だもんね……」
ツヤのある手すりをなぞって独りごちると、ゆっくりと階段を上る。
EXITと書かれた赤いネオン管の真下、分厚い鉄扉を開けて表に出ると、真冬の冷たい風が頬を叩く。
「うわ寒っ」
「うー冷えるぅ」
瑠美が思わず声を漏らしたのと同時だっただろうか。
5メートルほど離れた路地の奥から、男の声が聞こえてギョッとして目を見張る。
蓋の閉まったブリキのゴミ箱を椅子代わりに腰掛けた男性が、同じように驚いた様子で瑠美を見つめている。
辺りが暗くて顔まではよく見えないが、ブルーのネルシャツの前ははだけ、ダメージの入ったデニムの足元にはミリタリーブーツを履いているが、この寒空の下の割にはあまりにも薄着だった。
「寒いね」
気まずさを誤魔化すように、肩から上腕の辺りを抱えるように摩りながら、男性が瑠美に微笑み掛ける。
「凄く冷えますね。もしかしたら深夜から明け方にかけて雪が降るらしいですよ」
距離を保ったまま返事をすると、瑠美は空を見上げて白い息を吐く。
「どうりで冷える訳だ……ックシュン」
「大丈夫ですか?」
思いの外可愛らしいくしゃみに反応して、瑠美は改めて男性に視線を向ける。
「はは。クールダウンで頭冷やそうと思って出てきたんだけど、これじゃ本当に風邪引きそうだね」
先ほどよりも一層強く肩を抱いて、震えるのを堪えるような姿の男性に、瑠美は堪らず近寄ってストールを彼に巻き付ける。
「少しはマシだと思うんで、使ってください。あったかいでしょ」
「え?」
「私、手袋と耳マフ持ってるんで」
にっこりと歯を見せて笑うと、瑠美はコートの一番上のボタンを留めて、カバンから取り出した手袋を着けながら、耳マフを手元で振ってみせる。
「いやいや。俺はすぐ中に戻るから」
慌てた様子でストールを返そうとする男性と初めてそこで目が合う。
(あ、やっぱり)
瑠美はこの男性を知っている。
だからと云う訳ではないが、今日はあまりにも冷える。このままでは本当に風邪を引きかねない。それは彼も困るだろう。
クールダウンのために表に出てきたと言っていたが、この様子だと確かにそうなのかも知れない。
「大丈夫です、使ってください。それセールで買った安物ですし、今日おろしたての新品ですから」
「だったら尚更使えないよ」
「ダメですよ。身体が資本でしょ。私あなたのファンなので」
ダークグレーに黒の刺繍が入った厚手のストールを男性の首元に巻き直しながら、瑠美が悪戯っぽい笑顔を浮かべると、男性は何かに気付いたように少し目を見開く。
「……君は」
「そう云うことです。安物で申し訳ないんですが、ファンからのプレゼントってことで、ここは受け取ってください。後で処分してくださって構いませんから」
笑顔のままそう告げると、ふと目に入った腕時計が指す時間を見て瑠美は慌てる。
「どうかしたの?」
「ごめんなさい。寄るところがあって急ぐので、これで失礼しますね。応援してますよ、サイファさん」
寄るところと言っても大したものではない。晩御飯を作るのが面倒で、自宅最寄駅の商店街にある弁当屋が閉まってしまう時間が迫っているだけだ。
小さく手を振ってから踵を返してサイファに背を向けると、瑠美は慌てて駅に向かって足を進める。
「これ!ありがとう」
「はーい。風邪引きませんように」
振り返ってもう一度手を振ると、今度こそ腕時計を睨んで小走りしてその場を離れた。
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