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 駅に着くなりタイミングよく到着した電車に乗り込むと、吊り革を掴んでニヤけそうになる顔を必死で真顔に保つ。  サイファがパフォーマンスで喋ることはない。ステージのセクシーでワイルドな印象と違って、想像よりも優しく落ち着いた声をしていた。 「声、あんな感じなんだなあ……」  思わず独り言が漏れて、慌てて咳払いをして居住まいを正すと、吊り革を握り直す。  思った通りとでも言うか、夜景で鏡のように反射する車窓にニヤついた自分の顔が写り込んで、瑠美は一気に現実に引き戻される。  偶然とは云え、最推しのサイファと遭遇するだけでなく、会話した上にストールまで渡してしまった。 (あのデザイン、気に入ってたんだけど)  わざわざセールになるのを待って購入したストールだったが、サイファの寒さを凌ぐ手伝いができるなら諦めもつく。  それにしても、あの階段から店を出るのは初めてのことではなかったが、誰かに会うことなど一度もなかったので、正直言って驚いた。  そもそも向こうにしてもイレギュラーなことで、普段はあんな場所で休憩なんてしないのかも知れない。  客と鉢合わせする可能性がある場所に、ダンサーが居合わせてしまってはトラブルの元になるだろう。なんにせよ嬉しい偶然に、少しばかり——いや、かなり心が跳ねる。  近付いてようやくサイファだと確信したが、辺りが暗かったので正確にははっきりと顔が見えた訳ではない。 (それくらいの方が夢があっていいのかも)  ステージでパフォーマンスするサイファに恋焦がれている時間が好きなのであって、彼自身のことは知らないし、気持ちの高めようがない。  確かにエロティックな姿に、変な妄想を膨らませたりもするけれど、それは手が届かない相手だからのことであって、現実とはまた別のものだ。  自宅最寄駅で人並みに流されるようにホームに降り立つと、吹き抜ける冷たい風に一層頭の中がクリアになる。 「急がなきゃ。お弁当屋さん閉まっちゃう」  昔ながらの商店街が賑わう下町のこの街に住んでもう5年になる。  大学までは実家から通学していたが、下にまだ三人弟妹が控えているため、いい加減自立しろと言われて就職と同時に実家を出た。  それまで洗濯や食事はもちろん、部屋の掃除ですら母親任せの生活だったので、一人暮らしは苦痛でしかなかったが、慣れてくると自由度の高さに、今となっては誰かと一緒に暮らすことの方が想像しづらい。 「あ!いらっしゃい。今日は来ないかと思ってました」  弁当屋に着くと店の娘さんなのか、たまに見かけるご婦人とよく似た看板娘の可愛らしい女性が、カウンター越しに笑顔を向けてくれる。 「こんばんは。すっかり遅くなっちゃって。お弁当まだ残ってますか?」 「大丈夫ですよ。とは云え今日はハケが良くてこれだけなんですけど」  閉店が差し迫ったカウンターには、既に作り置きされた僅かな弁当が重ねて陳列されている。 「じゃあ、このサバの竜田揚げ弁当とほうれん草のゴマ和え……あ、あとお母さんのカボチャコロッケも二つ貰えますか」 「はい。毎度ありがとうございます」  手作り弁当シライシ。瑠美がこの商店街で一番お世話になっていると言っても過言ではない店だ。  手際よく袋に詰めれた商品を受け取ると、料金を支払い短い世間話をしてから店を出て、振り返って手を振る。  腕時計を確認すると、時刻はまもなく22時になろうとしている。  電車に乗る時に外した耳マフをカバンから取り出すと、防寒対策をしてコートの襟元を押さえて歩き出す。  駅から歩くこと15分。途中コンビニに寄ってビールを買ったので、実際は駅から7、8分の好立地にある、少し古い5階建てのオートロック付きマンション。  その一階の広いウッドデッキ付き1LDKが瑠美の城だ。  マンションのすぐ裏手は小学校なのだが、外壁が高くて部屋の中を覗き込めないようになっているので、一階なのが気にならない。  その代わり平日に休んだり運動会のシーズンになると、かなり賑やかだったりするが、その賑やかさすら可愛らしく感じて居心地は悪くない。 「ふう。ただいま」  ポストから抜いてきた郵便物を握ったまま壁に手をつき、乱雑にパンプスを脱いで部屋に上がると、短い廊下を抜けて扉を開け、すぐ脇のスイッチで部屋の電気をつける。  カーテンを閉めながら郵便物に目を通して、確認が必要そうなものだけ開封していく。 「おっと……これは」  パールホワイトの封筒には扇の形をした寿のシールで封がされている。いわゆる結婚式の招待状だ。  差出人は同僚の高浜義和(たかはまよしかず)中澤千夏(なかざわちなつ)。高浜は同期で、中澤は入社2年目の後輩。  二人とも大人しい性格同士、波長が合ったのか、高浜がメンターとして中澤について仕事を教えていたことが、この結婚に至る切っ掛けだと言うのだから、世の中どんなご縁が転がっているか分からない。 「まあ明日の呑み会も二人のお祝いだもんね」  結婚式の招待客はかなり絞っているらしく、瑠美はたまたま二人と仲がいいので会社代表の友人として呼ばれているが、社内から式に参加する人員は限られている。  そのため社内でお祝いのパーティーを開くことになり、新郎新婦と仲が良いという理由で、瑠美が幹事に抜擢されてしまった。  その実、忘年会を兼ねた呑み会なのが厄介なところだが、祝福ムードに水を差す訳にもいかず引き受けることにしたのだ。
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