55

1/1
前へ
/66ページ
次へ

55

 結婚式の準備も滞りなく進み、年内に入籍と、新居への引っ越しを済ませようと、有休を使ってクリスマスイブから早めの冬季休暇に入り、区役所に転入届と婚姻届を無事に提出。晴れて夫婦となった。 「北埜でよかったの?」 「北埜がよかったの」  冗談抜きで松下姓を名乗る気でいたらしい瑛児は、結構ギリギリまでこの話を持ち掛けてきたのだが、瑠美には二人も弟がいるし、わざわざ瑛児が松下の姓を継ぐ必要もない。   そうして帰り道に遠回りをすると、オリジナルデザインで発注していた結婚指輪を受け取りにジュエリーショップへ行き、どこにでもあるチェーン店のカフェの一席で、互いの指に結婚指輪をはめ合った。 「細工が細かいのに、こんなに細身のリングはやっぱり珍しいんだね」 「まあ一生物だし、ほかと被らないデザインに出来るなら色々頼んじゃうよね」 「瑛児の指は長くて綺麗だからリングも映えるね」 「瑠美の指にもしっくりきてるけどね」  お互いの指先を見つめながらのんびりとコーヒーを飲んで過ごす、ちょっと普段とは違う贅沢な時間。 「繁忙期にこんなまったりしててバチ当たらないかな」 「大丈夫だから休み取れたんだよ」  そう言いながらも、瑛児が今まさにタブレットで仕事をしていることは知っている。  4月にオープンが確定したspiritosoの関連業務が慌ただしくなってきているのだ。 「本当に大丈夫?」 「嘘はつかないよ」  タブレットの画面をオフにすると、瑛児が困ったように笑って残りのコーヒーを飲み干す。  帰り道、雑貨屋でオシャレな飾り彫が施された揃いのマグカップを買った。 「あの店いい感じだったね。また食器とか見に行こうね」 「瑠美とは趣味が合うからちょっと安心」 「はは。確かに好みが違いすぎると困っちゃうよね」 「一つずつ増やしていこう」  新居への引っ越しは済んでいたが、今日は瑛児の部屋の退去前の最後の掃除に向かう。  カーテンなどの一部の家具も置きっぱなしになっているから、捨てるにしても退去前に片付けなければいけない。 「引越しの時にまとめて外せば良かったのに」 「そんなの捨ててくれると思ってたんだよ」 「まさか。やってくれないよ」  たわいない話をしながらマンションまでやって来ると、不意にどこからか瑛児を呼ぶ声が聞こえてきた。 「あれ、誰か瑛児のこと呼んでない?」 「そう?」  辺りをキョロキョロと見渡すと、フラフラと焦点が定まらない様子で歩いてくる、どこか様子がおかしい人影が見えた。 「…………?」 「瑠美っ、俺の後ろに居て」 「え?」  人影を視界に入れた途端、瑛児が殺気立って瑠美に身を守るように強い声で囁く。 「瑛児……あなた結婚するんですってね」 「なんの用だ」 「冷たいじゃない?私になんの挨拶もないなんて」 「なんの用だと聞いている」 「瑛児、ねえ。今ならまだ間に合うわ。私のところに戻ってきてよ」 「そもそも俺がお前のものだった事なんてない」  瑛児は腕で瑠美を庇いながら女性と対峙している。  この異常なやり取りは、もしかして彼女がそうなのだろうか。 「ふふふ。そんな女のために強がらなくていいのよ?瑛児」 「瑠美、警察に通報して」  瑛児が振り返って小声で瑠美に指示を出す。  するとそれまで大人しかった女性が豹変して狂ったように叫び出した。 「瑛児ぃい!なんでそんな女が良いのよ!!だからあの時殺してやるって言ったのよ」 「お前、海外に居たんじゃないのか、優希」  瑠美を庇いながら少し後ずさる瑛児の様子と、聞き覚えのある名前に合点がいく。 (やっぱり。彼女が優希さんなんだ)  明らかに様子のおかしい優希は、フラフラと千鳥足で歩きながらこちらに向かって近寄ってくる。  瑠美は瑛児に言われたとおり警察に通報し、ストーカーに追い詰められて危険な状態だと電話口で住所を報告する。 「瑛児ぃ……あなたには私じゃないとダメなのよ。どうして分からないの!?」 「いい加減にしろ」 「どうして分からないのよぉおっ!!」  優希は大きく咆哮した瞬間、瑛児に向かって突進してきた。そして瑠美には見えてしまったのだ。鈍く光る何かを彼女が手にしているのが。  咄嗟に瑛児を庇うように前に出て抱きしめると、ドンッとぶつかる音と鋭い痛み、金属が地面に落ちて跳ねる音が聞こえる。 「あ……あ、違う。違うわ!」 「瑠美!?」 「あ、良かった。瑛児、無事だね」  心配そうに瑠美を見つめる瑛児の顔が見えて安心する。けれどなぜか体がズンと重たくなって、瑠美は膝から崩れ落ちる。 「瑠美っ、瑠美!!」 「あああああ、違う。違うわ!この女が!」  真っ青な顔で瑛児が瑠美を抱き留めて、その腕は震え、その少し向こうでは半狂乱になって騒ぐ優希の姿が見える。  だけどどうしてなのか。瑠美の意識は徐々にぼんやりとして、背中の腰の辺りが異様に熱くて、それなのに寒気が酷い。  それに気のせいだろうか。瑛児が瑠美を呼ぶ声がだんだん小さくなっていく。  瑛児を安心させたくて手を伸ばすけれど、うまく力が入らない。  遠くからサイレンの音が聞こえる。良かった。警察が来てくれたのだ。これで瑛児は大丈夫。  瑠美は安心した様子で、そのまま意識を失った。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

879人が本棚に入れています
本棚に追加