5人が本棚に入れています
本棚に追加
大坂夏の陣~赤き流星・真田幸村列伝《最終章》
現場の奮戦を嘲笑うように、呆気なく終焉を迎えた大坂・冬の陣。
豊臣方の中には、「戦況は我らが有利にある。和議など応じられぬ」と、不服を抱く者も少なくなかった。真田幸村もその一人だった。
雇い主の決定は絶対だった。その中で、時間を稼ぎ、体制を整えようと考える者もいた。
1614年12月23日。
豊臣家の人々は、我が目を疑う出来事に遭遇する嵌めになる。
徳川軍が早々と堀の埋め立てを始めたからだ。確かに条件のひとつだった。豊臣家の重鎮たちは「双方の兵も疲れているし、実際の堀の破壊となると徳川の連中も躊躇して、中々工事が始まらないだろう」と考えていた。
この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだった。徳川方はそれを無視し、徹底的な破壊を行った。
松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行として、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めていった。
数日後、総堀はすべて埋めつくされた。
その後の行動も手早かった。徳川軍は、三の丸の埋め立てに取り掛かった。和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。今まで黙っていた豊臣家も、さすがにこれは看過できず「和議を結ぶとき、二の丸・三の丸は豊臣軍が破壊をするという約束ではなかったか」と抗議をした。豊臣家からの抗議を受けた現場監督である本多忠純は「そちらの工事が遅れているので手伝ってあげているだけ」と、まったく相手にしなかった。
《従来は、堀を埋めたことと城郭の一部の破壊については、外周の外堀だけを埋める約束だったものを、幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てた。この件に関し、工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などによると、埋め立て工事を巡って、大坂方との間で、何らかの揉め事が発生しているような形跡は残されていない。勿論、不都合なことを隠蔽した可能性もある。しかし、目前で繰り広げられる工事に意義を申し立てた後、実効支配を黙認していたことは、不思議なことだ。これから察するに、惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであったのではと思われる。結局、二の丸・三の丸共に、数日の内に全て埋め立てられてしまう。これこそが今回の和議を結ぶ上で家康が、最も重要視したことだった》
1月より、二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては、相当手間取った。
家康は、大坂を去る際、「堀を三歳の子供でも昇り降り出来るようにしてしまえ」と、言い放っていた。や櫓も徹底的に破壊された。勿論、真田丸はいち早く、その姿を消した。
1614年2月14日 講和後、駿府に帰る道中で家康は、埋め立ての進展について何度も尋ねた。その道中には、京での天皇への停戦の報告もあったがかなりの時間を要していた。
心配性の家康は、大坂で事が発生した場合、急ぎ戻る気構えと鉄砲鍛冶の村で有名な近江の国友で大量の大筒を発注していた。
家康には、停戦の意志など全くなかった。
豊臣家を徹底的に叩き潰す、その序章に過ぎなかった。
工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。雇われ浪人たちは、豊臣家の和議に異論を申し立てていた。幸村は、その筆頭に立っていた。
「あと少し、少しで、徳川軍の息の根が途絶えると言うのに。和議の真意とは何で御座るか」
そう問い詰められた豊臣の重鎮は、しばし沈黙のあと
「我等とて、秤量に限界を迎えようとしておる。ここは、多大な被害を被る前に和解するのが豊臣家の為かと」
「それは、不可思議なことを。どう見ても、苦難にあるは徳川方。攻めどころは我らにあり。策もありまする。今一度、お考え直しを」
「ええい、しつこい。殿の決められたこと、反意を唱える者は豊臣方を去られるが良い」
「何と申される。聞き捨てならぬことを」
「…」
「ならば、秀頼様に直に申し上げたい。お計らいを」
「ならぬ、ならぬは」
「ならば、我ら有志だけでも、徳川に挑みますぞ」
「そうだ、そうだ、我らは、徳川を倒す道しかなき者よ」
「いや、待たれ、お待ちなされ。ここで謀反のような真似事を致せば、和議にある、お構いなしの条文が無になることも」
「そのようなこと、預かり知りませぬ。我ら豊臣方に就いた時より、この命、投げ打って御座いまする」
「皆の者、落ち着きなされ~落ち着きなされよ」
「ならば、秀頼様との直談判を」
「そ、それは、叶いませぬこと」
「何故で御座いますか、秀頼様はそこまで腰抜けになられたか」
「な、何を言うか、無礼な」
流石に秀頼を腰抜け呼ばわりしたことでの叱責には、一同も反省し、水をうったように沈黙し、場の雰囲気は一変した。
「致し方なし。秀頼様の名誉を守るためにも、お話申す」
神妙な面持ちの重鎮たちの顔をみて、幸村たちも口籠もった。
「実は、実はですな…」
重鎮の一人が重い口を開いた。
「秀頼様は戦う意思を示されていた。とは言え、良策があってのことではない。武将の血がそうさせたと我らは思う」
「ならば、何故、和議を受け入れられた」
さらに重鎮たちの口は、重く塞がってしまった。
「お答えを。いや、お答えくだされませぬか」
幸村たちも、重鎮の何かを気遣う気持ちを感じ取っていた。長い沈黙の果、大野治長が口を開いた。
「秀頼様は自ら陣頭指揮を取り、出陣の構えさへ見せておられた。その際は、時期早々と我らが判断し、お引き留め申した」
「そのような秀頼様が何故、不可解な和議に同意された」
「それはですな…」
大野治長は、俯いた。その手は固く袴を握り締めていた。
「如何なされた治長殿」
「…いや、何事もない。…正直申せば、我らもこの和議を受け入れるなど言語道断、そう思っておった。秀頼様も然り。しかしのう、秀頼様のお心を思えば、受け入れざるを得なかった」
「心情とは、いかなものでありましょうか」
「それは秀頼様の優しさ…とでも、申し上げておきましょう」
「それはどういう意が御座るのか」
「それは…それはご勘弁くだされ」
「この期に及んで、それは御座りませぬでしょう」
意味不明な返答にその場は、渾然と化した。有利に進めていた戦いを、不利とも言える和議を受け入れてまで、終わらせる疑問に、不可解な返答を繰り返す大野治長。雇われ浪人たちは、騒然となった。それを鎮静させたのは幸村だった。
「皆の方、お聞きくだされ~」
幸村の言葉に喧騒の風向きが変わった。
「皆の方、もう良いではありませぬか。我らは豊臣家に雇われた者。ならば、雇い主に従いましょうぞ」
「しかし、幸村殿…」
「承知、承知致しておりまする、皆の気持ちは」
「ならば、何故、引き下がろうとなさるのか」
「皆はご存知か、治長殿はこの和議の為、御子息を徳川家に人質として差し出されているので御座いますぞ。その治長殿が申される事、何より重みがあると思われませぬか」
「しかし…」
「豊臣家には豊臣家の言えぬ内情と言うものも御座いましょう。我らは豊臣家に雇われた身、ここは雇い主に従うのが筋では御座いませぬか。それで宜しいではありませぬか」
幸村に、渋々、浪人たちは鞘を収めた。幸村は、治長に自らの経緯を重ねていた。ある者には兄弟で敵味方に分かれて、戦う必要があるのか、と心無い問を掛けられることも少なくない。「詳細を知らずして、つまらぬ問をかけるな」と思うことも希ではなかった。心に秘めた憤慨や機微は、他人には理解され難い事だと自らが一番理解していた。我が子を人質に出しても守るべき真実は、他人には理解されないその歯痒さを幸村は、治長から感じ取っていた。
和議を受け入れた末の大坂城は、鎧を纏わぬ城と化していた。ただ、戦が終えたにも関わらず、多くの浪人が在中していた。
京都所司代に、次から次へと不穏な知らせが寄せられていた。
それは、豊臣軍の動きそのものだった。
「埋め立てた堀をほり直している」「冬の陣で集まった浪人が一人も解雇されないばかりか、逆に新しい浪人が集まりて、城内の人数が増えている」「夜になると京都で乱暴狼藉を働いている」「京都を放火するらしい」など、豊臣軍の意気盛んぶりを示す情報ばかりが入ってきていた。これらの噂が家康の耳に入るのは、時間の問題だった。大野治長は、これらの噂が誤解であることを弁明するために、駿府の家康の元へ使者を送った。その会見で家康は、言い放った。
「このまま秀頼が大坂に居て浪人衆を雇っていたのでは、良からぬ噂がこれからも立つだろう。そこでわしは、豊臣家の伊勢か大和への国替えか、浪人をすべて追放した方がいいのではないかと思う。その方が天下のためであろう」
浪人が居座っていたのは事実だった。それは、明らかな条約違反だった。その浪人衆が、放火の計画を立てているという噂は後を絶たず、豊臣家は、強気には出られないでいた。
使者は、直様、家康からの提案を大坂城へ持って帰った。が、豊臣家としては、当然受け入れられるはずもなかった。
再び使者は、家康の元へと向かった。「思いとどまってくれ」との豊臣家重鎮の意向を伝えるが「今更どうしようもない」と、家康は、聞き入れないでいた。この一言で両家は、再び交戦状態に陥った。
「あの狸、好き勝手な真似を…、又しても因縁をつけるか。和議を得て、引き伸ばし、家康の死を待つなど、絵に描いた餅。こうなれば、腹をくくるしかあるまい」
「淀殿様、それは如何なものかと」
「何が、何が如何なものか、このままでは…」
「お怒りは承知。なれど、和議を受け入れて、士気は下がっておりまする。さらに、浪人たちの多くを雇い払い致しておりまする」
「そのようなこと、知りませぬわ。また雇えばいいではないか」
「そのような資金は…、それに城は…」
「秀頼に伝えよ、早急に兵を集めよ、とな」
淀殿の焦りは、隠せないでいた。老齢な家康がなくなり、豊臣恩顧の大名を手にし、挽回を画策。そのための時間稼ぎに時間のかかる外堀、内堀、二の丸の埋め立て条件を飲んだ。にも関わらず、徳川勢では、諸大名が家康の信頼を得る機会と奮起し、多くの人夫を動員し、作業も徹夜で行った。驚く程の速さで作業は進み、豊臣家担当の二の丸まで埋めた。これには講義したが二の丸も埋められてしまった。数ヶ月で大坂城は、丸腰の本丸のみとなってしまった。
大坂冬の陣の和議を受けて、豊臣家に雇われていた兵は、国元に戻った。城内に留まれたのは極一部で、行き場を失った民兵を含む浪人の大半は、城下町界隈に留まっていた。
戦い半ばでの解雇に納得が行かず、豊臣家への怨みや不甲斐なさを酒の勢いを借り、くだを巻く者も少なくなかった。
兵が欲しいときだけ、向かい入れ、用が済めばお払い箱。雇用の関係にあるのは分かっていた。しかし、お家の大事に尽力を惜しまない覚悟を持った者には、余りにも打算的過ぎる対応を面白く思わない者も少なからずだった。その風潮は、義理薄弱の豊臣家と揶揄されるまでに浸透していた。
幸村は九度山に戻る前に、義を果たしていた。大坂冬の陣では、病気療養のため出陣していなかった兄、信之。その代わりにまだ若い信吉や信政が名代として参陣。それを知った幸村は、信之の立場を思い、六文銭の旗印を使わず、真紅の旗印を使った。
幸村は戦後、信吉、信政、離れ離れとなっていた真田家の家臣との接見を願い出、それを叶えた。
「この度は、私目のことにて本家に多大なる気苦労と御迷惑をおかけ致した事、これこの通り、お詫び申し上げる」
と、頭を下げ、真田家の絆の確認を動かぬものにした。その気遣いは、上田に住む姉・松村にも手紙で伝えていた。
にわかにきな臭くなってきた豊臣家の動きを警戒し、家康は駿府から伏見城に入っていた。そこに現れたのは、天海だった。
「お久しぶで御座いますな」
「おお、江戸の様子はどうだ」
「急ぎ、進めておりまするゆえ、ご安心を」
「それは大義じゃ。大義と言えば、そなたの言うた通り、あの女狐はころりと態度を変えよったわ」
「それは宜しゅう御座いましたな」
「それはそれとして、何故、訪ねてきた」
「御機嫌伺い…ですかな」
「今更、何を言うか」
「はははは、そうで御座いますな。では、本題に」
「江戸に人員を割くのは、無理じゃぞ」
「それはご心配なく。今、江戸には職を求めて、人が集まっておりますゆえ。そんなことではなく、豊臣のことです」
「ほう、新たな手立てを思いついたか」
「いえ、もう進めておりまする」
「ほう、わしの許可なく、進めておるのか」
家康は不敵な笑いを天海に向けた。
「怖い怖い、内密に進めてこそ、生きる策も御座います」
「何をしていると言うのじゃ」
「半蔵殿をお借りして、巷に噂を流しておりまする」
「噂とな」
「半蔵殿の手の者たちによって、浪人たちが集まる場所に行き、豊臣が如何に非情で、落ちぶれたかを…ですよ」
「そのような噂を流して、如何なる成果があると言うのじゃ」
「これは、家康様とあろうお方のお言葉とも思えませぬな」
「真意を言うがよい、早う言え」
「それでは…今、豊臣はまた浪人を集めておりますでしょう」
「だから、わしはここにおる」
「ならば、人員を集めさせなければいい。言い換えれば、集まりにくくすればいい。豊臣に就くことが愚かなことか、自らに掛かる火の粉が大きいかを知らしめることですよ」
「…それで噂か」
「はい、巷では豊臣擁護派と批判派に別れてきておりまする。火の粉に関しては、京都所司代の板倉殿にも、不穏な者の取締と密会の摘発にご尽力を頂いておりまする。それもこれも、豊臣への反感を煽り、密告者を募っているお陰。既に効果は出ておりまする」
「なるほど…戦は戦場のみにあらずか」
「左様で。今日お伺い致したのは、反逆者の摘発を強化するため、家康様の号令を頂きたく、参上致しました」
「既に効果がでておるのであれば、それで良いではないか」
「いいえ、天下に徳川に逆らうとどうなるかを知らしめるためと、徳川家臣の気を引き締めさせるためで御座います」
「完膚なき…か」
「私どもに時は御座りませぬ。豊臣とはこれが最後。そのための…」
「分かった、直様、命を出そう」
「お願い致しましたぞ」
「相分かった、それにしてもそなたを敵にせぬで良かったわ」
「それは、お互い様と言うことで」
「食えぬの~ほんに」
二人は、笑顔で徳川天下統一の明日を誓っていた。
「半蔵殿、聞いておったな」
「はっ」
「家康様のお許しを得た。直ちに板倉殿に手はず通り、関係各所に繋ぎをとって頂き、公然と取り締まられるようお伝えくだされ」
「直ちに」
「お頼みしたぞ」
半蔵は直ちに連絡網を駆使して、迅速に対応した。
「話は変わりますが、真田幸村と言う者、侮れませぬな」
「ああ、関心したわ。寝返らず、わしを親子で脅かしよる」
「幸村は諦めなされ。やつは前も申し上げた通り、家康様を討つことが生きがいとしておりまする。心に根ざした信念を砕くには時が御座いませぬゆえに。また、暗殺を謀るのもお控えなされよ。関ヶ原の後も幾度か真田幸村暗殺を企てた者が居ったそうな。しかし、尽く、しくじっておりまする。幸村の率いる者たちを甘く見れば、後悔致しますぞ」
「またもや敵に回すか…因果なものよな」
「念を押すようで申し訳御座りませぬが敢えて言わせて頂きます。決して、信之殿を人質に交渉はなされぬようお願い申し上げます。徳川の名誉のためで御座います。江戸の発展に要らぬ汚点は、避けなければなりませぬから」
「分かっておるわ、既に前の交渉でも封印しておるわ」
「そうで御座いましたな、念には念をと言うことで」
「心配性じゃな、そなたも老いたな」
「お互い様でしょう」
「それでは、私は江戸の町づくりに戻ります」
「あとは、わしが天下を揺るぎないものに致すわ」
「お頼み申しましたぞ」
「ああ、健吾でな」
「家康様も」
二人の談笑は、穏やかに過ぎ去った。
豊臣方内部では、徳川への不満が日増しに積もっていく。それは、剥ぎ落された財力を搔き集めてまでの兵士の募集と繋がっていく。
家康は、京都所司代の板倉を始め、半蔵の配下などの力を借り、「非情な豊臣」「張りぼての豊臣」「この度は許されたが、二度目は地獄を見る」など、酒場や寄合場所で風潮し、豊臣方の兵の募集を阻止した。
内通者や密告者から豊臣勢力の集会を聞き出し、水際策として容赦なく斬り捨てた。豊臣派の主なる大名たちにも京都所司代の板倉を通じて、家康の意向を強く伝え、自粛を促した。
対抗するように「一度敵方に就いた者を家康が許すはずがない」という噂が、諸大名や兵を疑心暗鬼の沼へと引き込んでいた。
豊臣方は、冬の陣で忠誠が薄れた諸大名に、勝利の暁には、高待遇で応える趣旨の覚書を提示してまで増兵に努めていた。
幸村は、豊臣方の必死とも思える増兵を他人事のように、敵であった甥たちや旧友に会ったり、姉・村松殿や村松殿の夫・小山田茂誠、長女・すへ(または菊)の夫・石合十蔵へ手紙を書いたりし、平穏な日々を過ごしていた。しかし、心情は穏やかではなかった。村松殿への手紙には「明日はどうなるかわからない状況ですが、今は何事もありません」との一文があり、石合十蔵への手紙にも「我等は籠城の上は必死の覚悟でおりますから」と、幸村は家康への警戒を緩めないでいた。
幸村の懸念は4月6日、家康の大坂城を攻めるという宣言で現実になる。難攻不落はもう昔の話、大坂城を包囲し勝利を確信した家康は、家臣の忠告を無視し、鎧着用を拒否し、物見遊山の如く振舞っていた。
徳川軍155,000に対し、豊臣軍78,000。
野戦では兵の数がものを言う。豊臣軍の勝ち目など絶望的なことだったが「我の目指すは、家康の首を討ち取ること。他に何事もなし」と幸村は、全く気に掛けていなかった。
野戦にて奇襲を掛ける策を推奨していた幸村だが、寄せ集めの軍団に統率力はなく、却下されていた。今は、無策の豊臣方。頼みの城の防御機能もない。徳川に一泡食わせた真田軍に異議を唱える者も賛同して戦う能力を持つ者もいなかった。孤独な戦いは寧ろ、邪魔な横槍が入らない事を意味していた。
大坂城攻め宣言の少し前、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じていた。4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発し、名古屋に向かった。翌日に豊臣方の大野治長の使者が来て、「豊臣家の移封は辞したい」と申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、6日および7日に「再び、豊臣と合戦、あい交えるぞ」と号令を掛け家康は、諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。
大坂城では和議に対する異論が激化していた。主戦派の幸村は、野戦を訴えていた。しかし、大野治長は、寄せ集めの軍で、真田軍のような統制がとれない、と譲らなかった。5日、大坂城桜門付近で実弟の治房の刺客と思われる者に治長は、襲撃される。幸い、怪我で済んだが和議に尽く失敗し、徳川有利に戦況が進む責任の全てを治長は負わし治房は、幸村と同じ主戦派で野戦による戦いを押した。
開戦を避けられないと悟った豊臣方は、金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。埋められた堀を修復する裏で、和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無し、と見て武器を捨て大坂城を去る者が出始め、治長が懸念していたように、豊臣軍の足並みは、足元から揺らいでゆく。幸村・治房ら主戦派が実権を握ると、総大将の首を討つ機会のある野戦に全ての望みを託した。
家臣の豊臣家に仕える鬱憤から織田家の織田有楽斎が大坂城を退去する。内通者であることが明白になる前に「豊臣の大将にしろ」と、暴言を吐き、認められない事を大義名分として戦列離脱を成し遂げる。
家康が、徳川義直の婚儀が行われる名古屋に入った頃、徳川秀忠は江戸を出発。家康は18日に二条城に入った。
関ヶ原の合戦で苦汁を舐めた秀忠は「私が大坂に到着するまで、何卒、開戦を待たれるように」と、藤堂高虎に家康への伝言を託し翌日、秀忠は、家康・本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと二条城での軍議に漕ぎつけ安堵した。重鎮からの忠誠心のなさを秀忠は、肌に感じていたからだ。
家康は、河内路及び大和路から軍勢を二手に分け同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うこと。二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうように命じた。
徳川軍は、河内・大和・紀伊方面より大坂城へ。
大和方面軍の先鋒大将は、水野勝成。総大将・松平忠輝、後見役・伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。
26日、豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には、徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。
治房勢は、紀伊の浅野家を狙っていた。浅野家は、豊臣家と縁が深かったが、冬の陣では徳川軍として参戦し、夏の陣でも再三の招きにも応じようとしなかった経緯があった。豊臣軍は徳川軍の出鼻を挫こうと、浅野家攻撃を図る。まず、大野治長が、紀伊国内の土豪層などに一揆を起こさせるのと同時に大坂城からも出撃し、浅野軍を挟み撃ちにしようと企む。浅野軍は、豊臣方の攻撃を予測し、警戒していた。
「国元に不穏な動きが御座います」
「一揆か」
「豊臣方と土豪層が結びついたとの知らせが御座います」
「御意」
浅野長晟は、この一揆を知り、危険回避を兼ねて、他の徳川軍が来るまで出陣せず待機していた。そこへ京都所司代の板倉勝重より「急ぎ大坂へ出陣するよう」にと、命令が入った。28日。長晟は、5,000の兵を率いて戦場ではなく、大坂城を目指した。密告者から佐野に着く頃には、ら一揆の詳しい計画と一揆勢を指揮しようとしていた治長の部下・北村善大夫らを既に捕えていた。
浅野家が大坂に向かったことを知らない豊臣軍は大野治房を主将とし、塙直之、岡部則綱、淡輪重信、新宮行朝ら3,000の兵に和歌山を目指して出撃させた。豊臣軍は途中、岸和田城を落とそうと攻撃したが、城主・小出吉英は守り抜き、敵を近寄せなかった。
「治房様、浅野軍が北上しております」
「何と、浅野が。このままでは我らが挟まれるではないか」
「治房様…」
「…南下じゃ、岸和田城に備えを残し、貝塚に向かうぞ」
一方の浅野軍は、佐野の市場(地名)にいたが、豊臣軍が20,000の大軍で攻めて来るという出処不明の報告を聞き大混乱となっていた。
「ここで死守するべきだ」
と、浅野良重は主張したが、亀田高綱は
「このような平地で大軍を迎え撃つのは不利だ。それよりも樫井まで退却して、松林を前にして防戦すれば敵に人数も知られず、かつ大軍を展開されることもない」
と反対し激論の末、斬り合いになりかけたのを慌てて止めた。そこで浅野長晟は決裁する。
「撤退を良しとする」
良重は、最後まで粘るも結局は退却を余儀なくされた。
豊臣軍でも小競り合いがあった。貝塚を出発していた塙直之と岡部則綱が自分が先鋒だと争い始め、暴走して進んだ挙句、口論となった。それを淡輪重政が収め、不穏な空気の中、進んでいた。
豊臣軍の先鋒は安松に着いたと頃、浅野軍の亀田高綱隊の待ち伏せにあい、射撃され、20~30の兵を失った。亀田高綱は、少し退いては豊臣軍と距離を置き、射撃するという戦法を取り、豊臣軍先鋒を徐々に追い込んでいった。豊臣軍は、業を煮やしていた。
「尻の毛を一本一本抜かれているようじゃ、ああ、じれったい。ここは一気に襲い掛かり、白兵戦に持ち込み一網打尽にしてやるわ」
※白兵戦(刀剣、槍など近接戦闘用の武器を用いた格闘)
遂に樫井で浅野軍に追いつくやいなやそこへ浅野軍援軍の上田重安隊が駆け付ける。これによって、功を焦った豊臣方軍の塙直之と、岡部則綱と仲介役になった淡輪重政が戦死(樫井の戦い)。
勝利した余裕から浅野軍は国元が気掛かりになり、大坂へ向かうのを止め、紀伊で画策された一揆への対策に向かった。
豊臣軍の本隊は、貝塚の願泉寺にあり、了閑という僧の策略で、饗応を受けていた。そこへ、樫井の戦いの敗残兵が駆け込んできた。
「何事じゃ」
「も、も、申し上げます。先鋒の塙直之様、淡輪重信様が戦死」
「何と…、先走りよって…。了閑殿、お聞きの通り、これにて御免」
豊臣本隊は、急ぎ樫井へと向かったが、目にしたのは、無残な残骸だった。
「何と…言う有様か…」
到着時には、組み易しと踏んだ手負いの徳川方・浅野軍は、退却した後だった。
「各々方、帰城致す」
大坂城へ引き返す際、豊臣本隊は、最後尾の異変に気づく。隊を反転させた時には、岸和田城に籠もっていた小出吉英・金森可重らに迂闊にも背後を取られて、追撃され、数十人が討ち取られていた。
統率と敵の動きを把握していた徳川方・浅野軍に対して、各々が勝手に戦った豊臣軍。当然の敗北だった。
先制攻撃、野戦、武力行使を唱えた気性の粗さで突き進む大野治房、自らの軍を信じる真田幸村たち主戦派の気概は、足元から崩れ落ちた。結果として、力量を推し量り、把握する大野治長の考えが正しかったことが証明された。
正に、豊臣軍の最大の欠点が浮き彫りになった樫井の戦い。幸村は思い起こしていた。4月30日。徳川軍の襲来間近の大坂城では、豊臣家上層部と浪人の間でどうやって対処するかが話し合われていた。
「大坂城南の四天王寺辺りで終結した徳川軍を迎え撃ちましょう」
と、幸村は主張した。後藤基次が、それに反論した。
「四天王寺辺りは、交通の要所ですぞ。大軍を相手に戦うのは不利で御座いましょう。それより、山に囲まれ道が狭い国分周辺に陣を敷き、大軍の力が発揮できないようにするのが一番ではあるまいか」
と、譲らなかった。話は平行線を辿り、結局は、幸村が、冬の陣で後藤基次から真田丸の陣地を譲って貰った事もあり、国分方面への出撃に合意した。5月1日。第一陣の後藤基次・薄田兼相・井上時利・山川賢信・北川宣勝・山本公雄・槇島重利・明石全登隊、約6.400が平野を目指し出発。続いて、第二陣の真田幸村・毛利勝永・福島正守・渡辺糺・小倉行春(作左衛門)・大谷吉治・細川興秋・宮田時定隊、約12.000が天王寺を目指し出発した。真田幸村と毛利勝永の二人は、後藤基次の陣を訪れ、酒を酌み交わしていた。
「我ら、道明寺で合流し、夜明け前に国分を越える」
「お~、それにて、狭い場所で徳川軍を迎え撃つ」
「我らが死ぬか、両将軍の首を取るか取られるかまで、戦おうぞ」
「お~」
何かをふっきたように談笑し、訣別の盃を酌み交わした。その頃、水野勝成を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊の堀直寄・松倉重政・別所孫次郎・奥田忠次・丹羽氏信・中山照守・村瀬重治軍、約3,800は国分に宿営していた。
「国分の先の小松山に陣を置くのが良いかと」
と、主張した。それに対し水野勝成は
「小松山を陣地にすれば敵襲を支えることは難しい。それよりもこのまま国分に陣を敷きましょう。国分ならば、敵が小松山を取ったとしても、回り込んで挟み撃ちにできましょう」
と、主張し、小松山に陣を置かなかった。
夜、伊達政宗軍10.000、本多忠政軍ら5.000、松平忠明軍3,800が到着。政宗は、豊臣方の動きを読んで、片倉重長に小松山の山下に一隊を伏せさせ、夜通し警戒するよういに命じた。その頃、後列である松平忠輝軍12.000はまだ、奈良にいた。
6日午前0時頃、豊臣方・後藤基次隊2,800は、平野を出発。夜明け頃に藤井寺に着き、真田隊などを待っていた。
「幸村殿、勝永殿はまだ、見えぬか」
真田隊は、まったく来る気配がなかった。濃霧の為、時刻を誤っていた。また、大半が浪人の為、行軍に慣れておらず、到着に大幅な遅れをきたしていた。
「このままでは戦機を逸すではないか…」
後藤基次は思案の末、待つのを止め、そのまま、誉田経由で道明寺に出た。そこには驚きの光景があった。
「あ、あれは、徳川軍ではないか」
徳川軍は既に、国分まで進出していた。後藤隊は、身を潜め、石川を渡ると、徳川軍が避けた小松山を占領し、そのまま、寝込みを襲うため、明け方を待った。朝方、基次は、片山村方面から徳川軍に向け「かかれ~」と、隊に命じた。基次は、作戦が既に破綻してしまっていることを悟っていた。それでも基次は、陣を構えた。
基次隊が小松山に布陣していることを知り徳川軍は水野勝成の言う通り、基次隊を挟み撃ちすべく包囲するように陣営を構えた。それでも基次は、徳川方・松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛け奥田は討つ。松倉勢は崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が救援し、辛うじて命拾いしていた。
善戦する後藤基次軍に対して、小松山を包囲した徳川軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加えた。基次勢は、次々に繰り出される徳川軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。
「怪我をした者は下がれ~。我らは、徳川軍を攻撃する」
包囲され、退路も絶たれた基次は、負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、徳川軍に突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生。更に伊達勢の銃撃により、基次は被弾する。約8時間もの激闘の末、「もはや、これまでか…」と、基次は戦死。主を失った後藤隊も壊滅し、薄田兼相・井上時利が討死した。その頃、やっと第三軍の毛利勝永隊が藤井寺村に到着していた。
「申し上げます。後藤基次様、薄田兼相様・井上時利様が
戦死なされました」
「な、何と…。ここは、我らだけで戦うは、愚かなこと」
真田隊は渡辺糺隊と合流し、真田隊を待つ毛利勝永の右を擦り抜け、苦戦している第二軍の北川宣勝隊の救出に向かった。幸村らは北川隊を救出すると、徳川軍の追撃に備え隊伍を整え敵を待った。
幸村たちは、徳川軍から逃れ後退した豊臣方の蒲田、明石、山川らの残余の兵を収容し、誉田村付近に着陣した。
それを見た伊達勢の片倉重長は、部隊を前後二隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。真田勢は鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せさせ片倉勢の接近を待ち迎え撃ち、伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ。その後、幸村たちは、半里に満たない近くの道明寺に到着していた毛利勢と藤井寺辺りで合流した。
徳川軍は、道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、幸村たち豊臣軍は、藤井寺から誉田の西にかけて布陣した。
誉田村を挟んで両軍は対峙し、にらみ合いの状態に。小競り合いから、両軍入り乱れての戦いとなり、幸村の息子・真田幸昌や渡辺糺が負傷する。両軍の兵の疲労度は、頂点に達していた。
伊達勢の片倉重長は、兵を退かせた。それを真田隊は追撃をかるが、他の伊達軍の部隊が援護に駆けつけて来た為、仕方なく、真田隊は西に兵を退かせた。徳川軍は大軍であり、家康・秀忠の指示が隅々まで行き渡らず、各武将の意志で闘う事も少なくなく、隊列が綻びを見せ始めていた。この機を逃すまいと大野治長は真田幸村らと話し合い、豊臣秀頼の出馬は今しかないと考え、大阪城に戻る事にした。
内通者と疑われていた幸村は秀頼の不信感を払拭するため自らが人質になる覚悟だったが、藤井寺の戦いで太腿に怪我をした長男・大助を向かわせた。幸村はある思いを大助に託していた。
「大坂城に戻って秀頼公をお守りせよ」
「私は最後まで父上と闘いたく存じます」
「頼もしいのう。父も同じよ」
「ならば…」
「そなたに大事な頼みがある。万が一、秀頼公の自害を見届けた後に、自身も武士らしく最期は自害せよ。私も同じよ。それで我ら親子は共に戦った証と致そうではないか」
「父上…」
大助は、父・幸村の意志を受け秀頼公を守るため大野治長と共に大坂城に戻る。その際、大野治長は致命的な失態を犯す。秀頼の馬印を揚げたまま戻ったのだ。これを見た豊臣軍と徳川軍は、豊臣が敗北を認め大坂城に戻るという噂が両軍に衝撃を与えることになった。大坂城では戦況を重んじて兵の激減に苦慮し、体制を整え直そうと案じていた。
5月6日、午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は、幸村を殿軍とし、午後4時過ぎから順次、天王寺方面へ撤退を開始した。
「この機を逃す手はない。ここは一機に攻め落としましょう」
と、徳川方、水野勝成は追撃を主張した。
「いや、待たれよ。我らの兵の疲労は激しく、望む成果を挙げられるかは定かでありませぬ。ここは、立て直しを」
と、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。豊臣軍は、徳川軍の追撃に備え毛利隊の一部を残し、付近の民家を放火して撤退した。この時、八尾・若江の戦いで大坂城近くまで豊臣軍が出張ってきていた為、行く手を阻まれ幸村らは、本道が使えず支道を使って一旦、大坂城まで戻った。
道明寺・誉田の戦いでの徳川軍の死者は、180名で負傷者は230名。豊臣軍は、死者210名でだったが、勇将を多数失い、徳川軍とは比べ物にならないほどの大打撃を被った。
5月7日未明、豊臣方は大坂城を出発し、迎撃体制を布いた。天王寺口は、茶臼山に真田幸村、幸村の子の幸昌、一族の信倍ら兵3.500。幸村が陣を構えるその前方に、幸村寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000。茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500。茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には、毛利勝永勢と、木村重成勢や後藤基次勢の残兵など6,500が布陣した。岡山口は、大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。茶臼山北西の木津川堤防沿いに、別働隊・明石全登勢300、全軍の後詰として、四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊が、布陣した。
豊臣方の策は 徳川方を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、解隊し順次叩く。敵を四天王寺に丘陵地に引き寄せ、横に広がった陣形を縦に変えさせ、それによって、本陣を手薄にさせる。そこで、別働隊の明石全登を迂回して、家康本陣に突入させる。それが叶わない場合、別働隊が、敵本陣の背後にまわった所で狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟い場所で攻撃する。そして、宿敵、家康を討つ。と、言うものだった。
一方、徳川方の軍勢は、夜明け頃、天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始。天王寺口先鋒に本多忠朝を大将にした、秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら5,000。二番手に榊原康勝を大将とした、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら5,400。三番手に酒井家次を大将とした、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら5,300。その後方に徳川家康の本陣15,000を布いた。岡山口は、先鋒・前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら20,000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎ら7,500と、細川忠興隊。その後方に近臣を従えた徳川秀忠の本陣23,000を布いた。茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000を配した。
大坂城に戻り、戦況を把握した幸村の本陣は、今は大坂茶臼山にあった。大坂城を守るのではなく、飽くまでも家康の首を狙う為だった。その為の策を携えて。
「よいか、敵の大軍は鉄砲を撃ちかけ、歓声を上げながら、討ち寄せて来る。この敵を引きつけるだけ引きつけよ。身方は、次々に倒れるやも知れぬ。耐えに耐え抜くのですぞ。反撃を受けずして、進撃する関東勢を見れば、気を良くした家康なり秀忠の本陣も釣られて進んでくるはず。ならば、我らとの間も縮まる。ぎりぎりまで引き寄せて、これを一機に打ち破り、本陣に迫る。狙うは、家康本陣のみぞ」
幸村は、背水の陣での策を自らの陣営に確認していた。数で圧倒する徳川方の本多忠朝は、物見遊山だった。
「あれを見るがいい。何も出来ず、身を潜めておるわ。ここは一つ、揺さぶってやるか」
5月7日、午前8時頃のことだった。
「殿、松平、本多勢がこちらに向かって進撃して参ります」
「まだ、動くでない」
幸村は、策に重きを置き耐えていた。最前線に到着した本多勢の鉄砲隊が、豊臣方を誘い出そうと一斉に威嚇射撃を開始。それに業を煮やしたのは毛利勝永だった。
「もはや、狼煙の合図など、待てぬ、出陣じゃ」
勝永指揮下の寄騎は、銃口を本多忠朝に向けて放った。
「殿、毛利勢が出陣致しております」
「何と、毛利殿は何ゆえに待てぬのか」
幸村の思惑とは裏腹に、東西の戦いの幕は切って落とされた。退却と誤解した大坂方の間に動揺が走り、落胆が広がり始めた中、豊臣勢の体制が整う前の合戦開始。幸村らの策であった狼煙を待っての攻撃が、綻びを見せた。合戦は、これまでにない兵力と火力がぶつかりあった。毛
利勝永や木村重成、それに後藤又兵衛などは正面きって徳川軍にぶつかった結果、徳川軍の防御を限界まで萎えさせた。
戦場は、幾多の誤報、噂が飛び交う混乱を見せていた。もはや考える暇などなかった。
豊臣方・毛利勝永勢は、徳川方・本多忠朝を討ち取り、先鋒・本多勢を壊滅させた。毛利に次いで本多隊の敗北に業を煮やしたのは、家康だった。
「何をしておる。えええい、もう容赦はならぬ、一機に叩き潰せぇ~」
激怒した家康は、ついに最前線に本隊である小笠原秀政、忠脩勢を向かわせた。
「申し上げます。殿、家康本隊が動き出しました」
「待っていたぞ、いざ、出撃じゃ」
幸村も参戦を決断した。家康の差し向けた小笠原秀政、忠脩勢は、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明らによって、側面からの攻撃を受け、小笠原忠脩は討死。小笠原秀政も重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。二番手・榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱。徳川方の先鋒・本多、二番手・榊原らの敗兵が酒井家次の三番手に雪崩込み、合流した。
家康は高台に陣取って、戦いを見ていた。 徳川方は、予想外の苦戦を強いられ、混乱の渦中にいた。鉄壁に思えた軍勢は、砂城が崩れるように家康本陣の陣形が崩れて行った。
松平忠直勢15,000は天王寺口にあった。忠直は功を焦っていた。その目前に徳川家を幾度も悩まさせた隊がいた。
徳川方「あの赤の馬印は、真田幸村で御座いますぞ」
真田方「おう、天が私に下さった好機なるぞ」
やるか、やられるか、その戦が真田隊を飲み込んでいった。幸村は即座に対処し、隊を先鋒、次鋒、本陣など、数段に分けた。幸村は多勢の松平忠直勢と天王寺口で一進一退の激戦を展開した。
「若様、このままでは本願成就は難しいことになりますぞ」
「何か手立てはあるまいか…」
そこへ幸村配下の戦忍びが駆け込んできた。
「幸村様、浅野長晟が松平忠直軍の備えの跡を通っておりまする」
浅野長晟は今岡より兵を出し、松平忠直軍を追って軍を進めていた。それは、戦場にいる者からは、そのまま直進し、あたかも大坂城に向かっているように見えた。
「これは使えるかも知れなぬ。戦忍びに申し付けよ。浅野長晟は徳川を裏切り、大坂城に入ると、な」
戦忍びは、敵味方が分からない足軽の恰好をして、虚報を流した。
「浅野が裏切ったぞ~」
「何、浅野が逃げただと」
「浅野が攻めてくるぞ~」
「紀州殿の裏切りか」
「浅野殿の寝返りか」
虚報の支持は、たちまち徳川方に動揺を与えた。特に反応したのが松平忠直勢だった。
「裏切りなど、許してなるものか」
忠直は真田勢との戦いより、一路、大坂城を目指した。浅野の裏切りの噂で動揺を隠せない徳川軍を見て、その混乱の隙をつき、真田隊は、隊陣が大きく乱れた松平勢を突破。
「今じゃ、目指すは家康本陣、参るぞ~」
幸村の号令で真田隊は一機に、毛利隊に苦戦する徳川家康本陣への強行突破に挑んだ。幸村は越前、松平勢と激突。家康は悠然と座りながらも、その膝は小刻みに震わしながら、それを見ていた。
「なかなかやるのう、真田の小倅目が」
(当時、幸村は四十半ば。それでも、家康から見れば、幸村の父・昌幸の息子という印象が強かった)
幸村には、策があった。
決死の強行突破にあたって、まず自らが囮になり、別部隊が、家康の後方から襲撃するものだった。
口では強がっていた家康の心境は、穏やかでなかった。その目前に幸村は、存在感を固辞して見せた。家康の警護隊は、すぐさま幸村に立ち向かった。
その時だった。
幾多の幸村が、四方八方から出現した。その数、七人。警護隊は、混乱の渦中に。たちまち隊列は乱れ、警護どころではなく、狼狽えて、戦場放棄して逃げ去る武将まで現れた。幸村の仕立てた影武者たちは、家康を警護する残る兵の多くを引きつけた。幸村の思惑通り、家康の警護は手薄になった。
迫り来る幾人もの幸村。
驚愕の憂き目に遭う家康。
「おおお、攻めて来るぞ、攻めてくる…」
「ここは退却を。お急ぎくだされ」
「馬印を下げ~」
家康一行は、幸村と一定の距離を取りながら、追っ手から、必死とも思える形相で逃げ出した。
「急ぎなされ~、真田が、真田が攻めてきますぞ」
真田隊は、警護隊を強行突破し、家康を追い詰めた。
「距離を取れ~距離を」
家康は、警護の数が減る度に、死の恐怖に怯えていた。真田隊の攻勢によって家康本陣は、蜂の巣をつついたように狼狽えていた。
戦意を失った約500の旗本が、戦線離脱。中には、三里も逃げたという者もいた。混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した。その際、旗奉行は、不覚にも家康を見失ってしまった。後にこの旗奉行は、詮議され、閉門処分となった。「馬印も打ち捨てられた」と大久保彦左衛門忠教は自伝に記していた。「浅野長晟裏切りの噂のために裏(後方)崩れが起きた際、両度までも、はや成るまじと御腹をめさんとあるを…」ともあった。
天王寺・岡山での最終決戦の朝、徳川家康は本陣に馬印を置き、自身は白い小袖を着て玉造方面の谷間に入った。家康は、死を覚悟していた。
「もう、駄目じゃ、駄目じゃ。このままでは、恥を晒す。恥を晒すより、わしは自害を選ぶぞ、自害を」
家康は、詮議され、さらし者にされる屈辱を恥じた。威厳を損なう。御家を堪えさせてしまう。それは、自己否定であり、決して認められない事だった。
「何を弱気な。勝敗は期しておりませぬぞ」
「そうですとも、敵方にも負傷者が多く出ておりまする。救援隊がつくまでの辛抱で御座いますぞ」
騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走る始末。家康は、二たびも自害しようとした。それを黒衣の宰相と呼ばれた僧侶・南光坊天海と付き従っていた小栗忠左衛門久次が身体を張って、必死に制止していた。そこへ服部半蔵が現れた。
天海は一度、江戸に戻ったが、胸騒ぎがし、大坂に舞い戻っていた。本陣についてすぐに、本多勢と毛利勢が合戦に突入し、本陣であっても安息の場ではない緊迫感を感じていた。それは今、危機感に変わり、現実のものとなっていた。
「半蔵殿、頼みがありまする」
「分かっておりまする、影武者で御座いますな」
「ただ、真田の目を反らせればよい。馬印をここより離れた場所に目立つように動かし、逃げて下され。決して、立ち向かうなどせぬように。そして、必ず大坂城に戻ってくるようにと」
「その役、私が行います」
「それは頼もしい」
「では、家康様を身の危険が及ばぬ処へ」
半蔵は、配下の者と家康を馬に乗せ、馬の尻を叩いた。その後を小栗忠左衛門久次、天海が続いた。
半蔵は天海の指示通り、離れた場所で馬印を目立つように立て、右へ左と動くと天に向かって銃を二・三発、放った。
「若様、あれを」
「あれは家康の馬印、逃げ追うせたか…無念」
「一同の者、退去じゃ、退去せ~い」
真田勢に突き破られた酒井・内藤・松平などは
「固まれ~、それにて敵を包囲しろ。離れるでないぞ」
と、号令を掛け、急ぎ体勢を立て直した。伊達政宗の救援をも受け、数で勝る幕徳川方は、戦局を挽回し始めた。
大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も、陣を立て直し、豊臣方を側面から攻め立て始めた。次第に、真田隊、豊臣方追は逆に詰められていった。
「若様、ここは一機に家康の首を」
「…。無念、無念なるぞ…」
「若様」
「見ろ、皆、疲れきっておるわ。ここは引こうぞ」
「若様…」
真田隊勇士は幸村を取り囲み、幸村の胸の内を察した。
「皆の者、体制を立て直す。無駄に死すは真田にあらず」
と、高らかに指示を伝えた。幸村らは、失意を抱え、重き足取りを大坂城へと向けた。幸村は、休息を取れる場を探していた。夢も希望もない帰路に、ひと足毎に膝が崩れそうだった。辿り着いたのは、茶臼山の北にある安居神社だった。
「皆の者、ここにて、しばし休まれるが良い」
兵たちは、重い腰をつるべ落としの如く、その場に沈めた。
「海入道(三好清海入道)、若様はどうされるつもりかの~」
「兄じゃ(三好伊入道)、決まりきったこと言うな。家康の首を討ち取るのみよ、そう思うじゃろ」
「そう思うぞ。援軍さへ来なければ、間違いなく、家康の首はこの手にあったはず」
「そうよ、そうよ」
三好清海入道、三好伊入道・兄弟は、息を荒げて、自らの手を眺め、力強く、握り拳を作ってみせた。
「しかし、何故、秀頼公の出馬が適わぬのだ」
と、根津甚八は、合点の行かない疑問を口にした。
「そうよな、元はと言えば豊臣の戦。ならば、何故ゆえにその総大将である秀頼酷が出馬せぬのか…分かり申せぬわ」
由利鎌之助は、握り拳を膝に叩きつけた。
「まぁ、豊臣には豊臣の事情と言うものが、御座いますのでしょう」
「甚八、何を言う」
三好清海入道は、甚八に食ってかかった。それを制しながら、由利鎌之助が割って入った。
「甚八が言いたいのは、豊臣など頼りにならぬ、この戦は真田の戦であると、言いたかったのじゃ、のう甚八」
「豊臣が我らの申し出を聞き入れておれば、戦況は大きく変わっていたはず…」
鎌之助は、憤りに任せて、言い放った。一同は、その無念さに鉛のように重たくなった体と心を憂いだ。
沈黙が、闇を包んだ。
パタパタパタ。
数羽の鳥が繁みを突き破った。
「そうだ、若様の姿が見えぬが何処へ」
根津甚八が、重い空気を平静に戻した。
「若様は、一人になりたいと言われて、姿を消されました」
三好伊三入道が言ったのを受けて、甚八は不安になった。
「よもや、若様、失意のあまり…」
「甚八、取り越し苦労がすぎるぞ」
「そうじゃ、そうであれば、討ち死に覚悟で家康本陣に突き進んでおるわ。こうして、休息するは次なる戦への望みを思ってのこと」
「悪かった悪かった、許されよ、許されよ、ほれこの通りじゃ」
そう言って甚八は、大袈裟に頭を垂れて見せた。一同が一抹の不安を抱えていた中での確認行為だった。口にし、皆がその不安を払拭するために。皆が同じ心であることを改めて認めあった上で、いまこのひと時は、和みとなっていた。真田勇士たちが休息と心を交わす頃、幸村は、安居天神の前に、ひとりでいた。木々を擦りぬける風の音、山の匂い、静寂に幸村は包まれていた。
幸村は家臣の前では気概を見せていたが、真意は、絶望と憔悴で立つことも適わぬ程、疲れきっていた。
安居天神の祠の前に、ゆったり鎮座し、誰と話すでなく、淡々と、見えぬ相手に語りかけていた。
「これでよかったのかも知れませぬぞ、父上。誠を申せば、無念の一言、で御座いまする。なれど、家康を追い詰めた武将の一人として、天下に真田家ありを知らしめたのでなかろうか。これで、家康の天下となっても、兄上とその子らが立派に、真田家を守ってくれることでしょう。家康を傷つけなかったことが幸し、肩身の狭い思いを掛けた兄上にも幾分かの慰めとなりますでしょう。そう、願っておりまする」
幸村は、断ち切られた悲痛な思いを紡いでいた。
眼下に雲霞の如く群がる関東方の軍勢。それを真紅の甲冑に身を包み、真田丸、茶臼山から眺めていた。幾多の戦が走馬灯のように流れては消えていた。
「思い起こせば、九度山の蟄居先で父上が世を去られたのは、もう四年も前になりますな。臨終間際、父上は、徳川と豊臣が手切れとなった時の豊臣必勝法をそれがしに語られましたな。父上が語られた必勝法は、全国を巻き込む大戦でした。それは、父上であればこそ、実現させられたやも、ですよ」
幸村は当時のことを思い出し、薄笑いを浮かべていた。
「私は父上ではありませぬ。また、全国を巻き込む戦を民は最早望みますまい。それは、関ヶ原で家康に挑んだ義父上、治部殿も同じ思いのはず。あくまで豊臣政権を支え、世の安寧を守るために」
幸村は、懐かしいふたりの温顔を思い浮かべていた。
「それがしは、父上のように全国に悪戯に戦火を広げずして、この大坂周辺で家康と雌雄を決するのが望むところでした。如何でしたか、父上。父上直伝の真田の兵法、天下に知らしめたのではないかと…せめて、そう、受け止めてくだされ」
意気消沈した幸村の記憶に、鮮明に蘇る場面があった。
「我らが目指すは家康の首ただひとつ、遅れを取るでないぞ」
勇ましく鼓舞する自身の姿だった。いまは、その面影もなかった。頭を垂れた幸村を睡魔が襲ってきた。
前のめりに屈しようとした時、木々を突き破る鳥たちの羽ばたく音で我に戻った。茂みの中を彷徨う男がいた。
その男は、戦の最中、群れから離れ、死に場所を探していた。そこに一頭の馬の足音が聞こえた。耳を澄ましたが、その他に足音は聞こえなかった。馬に乗るのは上級武士、それもひとりで。
佐平次は、その主を確認するために近づいた。敵方であれば、一矢報いようと考えていた。馬は木に繋がれていた。そっと近づいてみると、それは幸村の矢倉ではないか。孤独と死の狭間で見つけた一筋の光だった。
「幸村様、幸村様でありますまいか」
その声のする方に幸村は振り向いた。聞き慣れた声だった。
「幸村様」
「おお、佐平次ではないか、如何しておった」
「隊とはぐれ、死に場所を探しておりました」
「そうか、そうか、近くに寄れ、ほれ、ここへ」
「無念で御座います」
「そうよな。何もかも終わった」
佐平次は、幸村の懐で嗚咽を漏らしていた。そこに、複数の慌ただしい足音が、静寂を切り裂いた。再会を果たした幸村と佐平次の前に現れたのは、徳川勢の追手たちだった。佐平次は、幸村を庇うように立つと、槍先を追手たちに向けた。
「大坂方か」
佐平次の問いかけに返事はなかった。敵方と確信した佐平次は、常軌を逸して、槍を突き出し、追っ手たちに目掛けて飛びかかった。乾いた銃声が数発、木々を騒がせた。
幸村の目に飛び込んできたのは、銃弾を受けて倒れこむ絶命寸前の佐平次の姿だった。佐平次に近づこうとする幸村に、追手たちの銃口が向けられた。
「静まれ~、静まりなされ~」
と、幸村は、恫喝した。一瞬、緊張は、静寂となった。
「手向かいは、いたさん」
幸村の迫力に押され、兵たちは、小刻みに震えていた。幸村は、重い体を引き摺り、佐平次の元へ近づいた。佐平次を抱えると幸村は優しく語りかけた。
「以前、さなたとは共にに死ぬような気がすると言うたのぅ」
「ゆ・幸・村様」
「それが誠となったのう、死ぬる場所は同じじゃぞ」
「ゆ・幸・村様」
佐平次の命は幸村の手の中で散った。幸村は、佐平次の亡骸を抱えながら、自らの定めを悟った。
「どなたか知らぬが、手柄とされよ」
「名は?」
「真田左衛門之助幸村」
「な・なんと」
追手たちはその名を聞いて、たじろいだ。
「其れがしは、松平忠直家臣、鉄砲組、西尾仁左衛門と申す」
「私が左衛門之助幸村である証を持参する故、暫くここで待たれよ。逃げ隠れする気力はもう残されておらぬわ、心配致すな」
幸村は、脱ぎ置いた馬具と刀を取りに行くと偶然、お堂の影に入る事になった。
「兄上、左衛門之助幸村は、かく相成りました。父上、これで宜しゅう御座いますな」
そこへ現れたのは、美濃吉だった。美濃吉は息倒れになる処を幸村に助けられ、それ以来、身の回りの世話を行っていた。四六時中、付き添う間に幸村の考えていることが分かるようになっていた。美濃吉は突然「御免」と言い、弱っている幸村に当身を食らわした。そこへ鉄砲の音に反応した三好兄弟が現れた。声を出しそうになった兄弟を美濃吉は「静かに」と制止、端的に事情を話した。三好兄弟は目頭に熱きものを蓄え、美濃吉の気持ちを受け取るように幸村を抱きかかえ物陰に隠れた。美濃吉は素早く兜を付け、馬具を持参して現れ、幸村に届けとばかりに「これで宜しゅう御座いますな」と言い残すと自ら命を絶った。
歴史は、これを真田左衛門之助幸村、四十九年の生涯とした。
「夢を見ていたのか」幸村は驚いた。敵方に見つかりこの世の身支度に向かった。そこで記憶がなくなった。目覚めた目前には、三好兄弟、由利鎌之助、根津甚八の四人がいた。
「おお、目覚められた」
「私は…、夢を見ていたのか」
由利鎌之助が、事情を説明した。幸村は、絶句し、美濃吉の最後の場であろう場所に急ぎ向かった。そこには、主無き胴体が野ざらしになっていた。幸村は、その場で泣き崩れ、珍しく取り乱した後、配下の手を借り、意を引き継ぐ思いで、出来る限り手厚く葬った。それは、事の全てが片付いた頃の出来事だった。
「これより、私は、生霊となるのか…。よいか、皆の者、美濃吉の善意を無駄に致すでないぞ。私はこの世にいない、良いな」
「御意」
「これから如何なされますか」
「お前たちは、生き延びる手立てを求めよ。私は、大坂城に向かう」
「おひとりで、歎願成就を…」
「いや、もう私にはその資格はない」
「では…」
「そうだな…。生きていればこそ、新たな望みも開かれよう」
「意味が分かりませぬ、はっきりと申してください」
「ほれ、この通り、私は生きた霊よ。皆とは異なる。分からぬ、で良いではないか。分かれば、祟られるやも知れまいぞ」
「そのような…」
幸村は、それよりひとりで行動するため、皆と分かれることにした。
幸村の首を討ったという知らせはすぐに広まった。直ちに、その首が幸村のものかどうか、大将が確認する首実検がなされた。幸村の首級は手柄を焦る者より幾つも持ち込まれていた。首実検には、幸村の叔父にあたる真田信尹が呼ばれた。信尹は、じっくりとその首を検証して
「死んでいると、人相が変わってしまうので幸村か確認しろって言われても…難しゅ御座います」
「死んでいても、甥の顔くらい判別つくだろ」
と、場の空気を読めない返答を行った。幸村が生きていたら気が気でない家康は、この信尹の発言に苛立ち、不機嫌になったのも当然のことだった。信尹にしては認めたくない気持ちと早く終わらせてやりたいという気持ちの葛藤の中にあった。更に、首を持っていた西尾仁左衛門を見て仰天した。声には出さなかったが「こんな男にあの幸村が…有り得ますまい。本当にこの首は、幸村なのか疑わしく思えてきたわ」その疑惑は、他の武将も同じように抱いていた。それでも、兜での確認や首の口を開け、欠けていた前歯二本を確認し、幸村であると判断した。
「信尹の真面目さが仇となりよったわ」
その首級が幸村と確認されると家康は、「幸村の武勇にあやかれ」と言うと、居並ぶ武将たちがこぞって幸村の遺髪を取り合った。さらに家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。敗戦の将を「誉め讃えていい」としたことはまさに異例中の異例だった。幸村を討った男となった西尾は、家康から尋ねられた。
「それで、幸村の最期はどうだったか」
「誰とは存じませんでしたが、人間業とは思えない奮戦ぶりで戦う男を見つけたので、あれやこれやと、なんとかして最後にどうにか討ち取れたので御座います」
「有りの侭を語るが良い、もう良い、大儀じゃった、下がれ」
家康は、叱責しつつも西尾をとにかく褒めて退出させた。西尾の姿が見えなくなると、家康は笑ってみせた。
「…まあ…幸村ほどの男があやつごときと戦って、あれやこれやで討ち取られただと、そのようなことはあるまいな。武道に通じぬ者の申し様じゃわ」
家康は、西尾の話を全く信じていなかった。
細川忠興などは、戦後に国元に送った書状の中で「古今にこれなき大手柄」としつつも「負傷し、草むらに伏していたところを討ち取ったわけだから、手柄でもあるまい」と、残している。更に、幸村に関してもこう残してる。「徳川家の旗本は逃げない奴のほうが少なかった。その中で幸村の戦いぶりは見事だった」と書くなど、徳川軍についていながら、幸村を賞賛した。
後日談として、幸村の命に従って大坂城に戻った長男・大助は父の安否が気になり、城名に逃げ込んだ人々に聞いて回った所、天王寺で徳川方と戦って討死したことを知る。涙を流して父の死を悲しんだ。豊臣方の敗北により秀頼の自害を見届けた後、大助は、肌身離さず持っていた、故郷にいる母から貰った真珠の数珠を取り出し、自身も西の方角を向いて念仏を唱えて16歳で腹を切った。大助が自害する2日前、大助は大坂城からの脱出を勧められたが、拒否。ひたすら念仏を唱えて返答すらせず、静かにその時を待ち、最期は鎧を脱ぎ捨てて切腹し果てた。その勇ましい姿を見た周囲の人々は「さすがに武士の子」と真田家の男子として立派な最期に賛辞を贈った。
戦国武将には影武者の存在は、当たり前。事実、家康を追い込んだ時も複数の幸村の影武者が存在した。しかし、体格、顔立ちまでが瓜二つの影武者がいたのかは定かではない。
安居天神で幸村が絶命する前に向井佐平次が数発の銃弾を受けて絶命した時のことだ。その後、幸村は僅かであっても姿を消す。銃声は、付近で休息する真田衆に聞こえないはずがない。銃声のする方向に馳せ参じて入れば、幾ら鉄砲隊と言えども山の中。接近戦となれば、真田隊の勝ち目が濃厚。仮に真田幸村の命を救えなかったとしても、その亡骸を人目につかないように葬るのは戦国の世では必定。幸村の死を誰もが疑った。
話を聞けば聞くほど、合点のいかない事実が浮かんでくる。弱りきった幸村を鉄砲隊が討つのは有り得る。しかし、付近に真田衆がいる限り、容易く幸村の首を持ち帰るのは難しいのではないか。それを容易く持ち帰らせた。それは、影武者の首であったから、西尾仁左衛門らに追手を掛からなかったのではないのか。
最早、真実は、闇の中にあった。
貧しい山奥での暮らし、白髪が増え、背も曲がり、歯も抜け落ち、加えて、激戦の最中での変貌、幸村への思いが真田信尹の判断を鈍らせていたのではなかろうか。
大坂の陣には不参加していなかった島津家当主・島津家久は、大坂夏の陣での幸村の神がかり的な戦いぶりを聞き及びこう記している。
真田は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいると思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄。と。
戦場での武勇伝は、参加しなかった武将たちの関心を引き、噂が噂を煽り、語られることは珍しくはないが、その中でも幸村という存在は、大きなものだったに違いない。
「真田幸村は、生きている」
そんな噂は面白可笑しく、密かに広まった。
西尾仁左衛門(西尾宗次)が主張する幸村の首を家康に届けた。その際、誇張報告をした西尾に家康は、叱咤した。家康にしてみれば、自分を死の淵に追い込んだ相手がこんなにも容易く、討ち取られるなど、信じがたいことだった。名だたる武将には、それに相応しい死に様と言うものがある。それがこのような結末を迎えること事態、家康は、認めたくもなく許せないものだった。幸村を討ち取った喜び、安堵感よりも、その不甲斐なさを自分のことのように思い馳せらせ、落胆していた。
家康の怒り、苛立ちは、幸村死す、の事実を突きつけてきた西尾仁左衛門に向けられた。漁夫の利で得たような功績を、家康は無視しようと思った。その思いは適わない事態にまたもや心を痛めた。
直前に、同じ越前松平隊所属の野本右近が、首を持参し、それに褒美を与えていたため、建前上、仕方なく、公正を期するため、同様の褒美を与える羽目になった。下級武士の名誉など正直取るに足らず。しかし、それを家臣に持つ大名への配慮は別だった。
「真田の小倅は、不運な最後を遂げよったわ」
戦場で逃げ惑う名前だけの武将も少なからず存在した。不甲斐ない者の中で窮地にも立たされた。勇敢な武将を家康は身をもって知り、敬意を払っていた。幾度も手を変え品を変え、幸村を傘下に収めようとした。手に入れたくても、入らない。兎角この世は思うようにいかぬもの。その歯痒さゆえに、その思いは過度に募っていた。敵ながら戦略も、その勇敢さ、家臣の優秀さを認める幸村の最後の不憫さを家康は、隠せないでいた。
西尾仁左衛門は、徳川家康及び秀忠からは褒美を、松平忠直からは刀などを賜り、700石から1,800石に加増された。
さて、真田幸村の件は、これにて一件落着…とはいかないのが歴史の奥深さ。幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』。
しかし、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には、幸村の兜首が3つも出てきたと記されている。その中で、西尾仁左衛門(久作)のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされた。
しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者・望月宇右衛門の首であったとのこと。西尾の主人・松平忠直は、将軍秀忠の兄・秀康の嫡男であり、その忠直が、幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった、と記している。
豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に住んでいたと言われている。
幸村の兄・信之の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説についての調査を行った。その結果報告を見た肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。
鹿児島県南九州市頴娃町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸」は「幸村」の名に由来するという後日談もある。この幸村が大坂城落城の際、豊臣秀頼を背に負い、助け出し、九州に逃げ延びたとの話も…。歴史はそれぞれの思いが折り重なり、深くて面白い。
最初のコメントを投稿しよう!