二 今日から私は庶民(以下)である。

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 お金もなければ身分もない。土地勘もなければ行く宛もない。  それでも、比較的私は楽観的だった。  後宮の出口に面して開けた通りは、空気が澄んでいる。  魑魅魍魎もいなければ、異臭を放つ浮浪者もいない。  皇帝はボンクラだが、為政者としてはそれなりのものらしい。  恨み辛みに嫉妬に憎悪、幾重にも幾重にも何代にもに渡って堆積し続けてきた後宮の澱みに比べ、なんと清々しいことだろうか。  額の傷はとてもとても痛いが、こういう場所なら、それなりに治りそうである。 「さて」  周囲を見回すと、音速で目を逸らされた。どうやら私は異物らしい。  それもそうか、と思う。  私だってこの惨状の人間が歩いていたら、避けて通る。  周りに迷惑をかけるのは本意ではないので、通りの端に避けて歩く。  それでも、顔だけはしっかり上げておく。  ここで卑屈になると危ないということは、これまでの経験から立証済みである。  ただし、この経験というのは、対人間の話では、ない。  ※  ※  ※  月家は、代々続く士大夫の家柄だ。交通の要衝となる土地を有する大地主で、父も兄も高官である。  発言力も高く、皇帝とてむやみに扱うことはできない。  だからこそ、姉妹揃って上位の妃として入内することができたのだ。  つまり私は、国内でも指折りの深窓の令嬢であり、単身で外出したことなど一度もない。  いや、今やってるか。  ともかく、私に危害を加えるような人間は、周囲にいなかった。  恨みや妬みを持つ者は多いだろうが、私の目に触れるところまで近づくことはなかった。  それなのに私が危険に慣れているのは――私が持つ奇妙な能力のせいだ。  私たちの母は、高名な仙人を輩出したらしいと有名な、古の名家だった。  だが、名家とは名ばかりで、父母が結婚したころには、すっかり貧乏暮らしだったらしい。  そこで、よくある資金援助と引き換えに云々というのが、両親の馴れ初めと聞く。  その母の血なのだろうか。  私は子供の頃から、人外の存在が見えた。  強い害意や憎悪、いわゆる幽霊や生魂、妖怪と呼ばれる別種の生き物まで、ほとんどありとあらゆる異形のモノだ。  彼らには、高い塀も門番も護衛も関係ない。  私以外の誰にも見咎められず、簡単に接近してくる。  私の家も、後宮も、例外ではなかった。なんなら、瘴気の度合いは後宮が最もひどかった。  しかし、私に出来るのは、視ることだけだ。  祓ったり浄化したり手懐けたりなど、できはしない。  気合を入れて睨みつけるのが、最大の対処法という悲しい有様である。  だから、私がお守りコレクターになったのは、あまりに当たり前のことだった。  しかも実家が金持ちなので、大抵のものはホイホイ買ってくれた。  その結果の、証拠っぽいものの山だったわけである。  美少女の妹に比べ、平凡な顔の姉。生粋の変わり者。  そんな評価はどこでもついて回ったが、家族や使用人は、私を大事にしてくれた。  後宮でまで仕えてくれていた侍女たちが、私の巻き添えを食っていないことを祈るばかりだ。  私たち姉妹が後宮に入内するのは、昔から決まっていたことらしかったが、私にとっては災厄だった。  あれほどまで煮凝った悪意が渦巻いている場所を、私はほかに知らない。  後宮は、私にとって戦場にも等しかった。  入内してすぐ、妹は高熱を出して寝込んだ。瘴気の吹き溜まりにあてられたせいだ。  それは一度では収まらず、何度も何度も繰り返された。  その度に、私や侍女たちは必死で看病した。  怪しいお守りグッズも拒否されなかった。皆、藁にもすがりたかったのだろう。  もともと繊細な容姿をした妹だったが、後宮に入ってからは、明らかに線が細くなった。  風が吹けば折れそうな、今にも消えてしまいそうな儚さは、子供の頃にはなかったものだった。  そして、三か月前――ついに、恐れていたことが起こった。  ※  ※  ※  それは、今にも雨が降りそうな闇夜のことだった。  ――ふふ、ふふふっ  皆が寝静まった深夜に、不釣り合いな笑い声が響いた。  けれど、後宮中に響いたのではないかと思われるその声に、反応したのはどうやら私一人のようだった。  そうでなければ、すぐにでも侍女が駆けつけるだろう。騒ぎになるのもすぐのはずだ。  ここには、不本意ながら私を含め、大切な大切な皇帝の妃が集っているのだから。  私は、そっと寝所を抜け出した。  足音を消すような技術は持ち合わせていないけれど、目を覚ます侍女はいない。  こういう時は、少々騒いだくらいでは、誰も気が付かないのだ。  理由など知りはしないが、経験則が告げている。  足音を忍ばせて、笑声に近づいていく。  君子、危うきに近寄らず。  知ってはいるけれど、虎穴に入らずんば虎子を得ずなのも事実だ。  この場合の虎子は、原状回復という、なんとも労力に見合わないものだが、戻ってもらわなくては困る。  せめてものお守りとして、手近にあった塩の小箱を掴んで持っていく。ないよりはマシだろう、多分。  声に近づくのは簡単だった。  なんなら向こうからこちらに近づいてきていた。  柱の陰から覗き見たソレは、能面のような顔をした半透明の女だった。  まとう衣は限りなく白に近い薄い色。浅葱にも白緑(びゃくろく)にも見ようと思えば見える。黄色のようにも赤系の色にも見える。  顔立ちは判然としない。いくつもの顔が重なってでもいるかのように、瞬間瞬間で容貌が変化する。  これは、特定の誰かの霊では、ない。  ゆらゆらと空を歩くソレを、私は、柱の陰から見つめることしかできなかった。  相手は私の方に視線を向けないが、気付いているのかいないのかは分からない。  興味がないだけなのかもしれない。 (どうしよう)  ソレは、私のような見えるだけの素人に何とかできるような代物には見えなかった。  薄く白い不安定な存在のくせに、異様な圧がある。  その辺をふらふらしている浮遊霊とは、比較にもならない。  これは、どうにもならない。  そう、しっぽを巻いて逃げ出そうとした、その時だった。  ふらふらとさまよっているように見えた女が、不意に目標を定めたように視線を上げた。 「待て!」  隠れていたことなど忘れて、私は叫んだ。  そっちはダメだ、行かせてはならない。  ソレが見た宮は、そこは、ダメだ。  そこにいるのは、私の大切な妹なのだ。  女は、私のことなど歯牙にもかけなかった。  追いかけて行って掴もうにも、実体のないソレは掴めない。  その間にも、ソレは確実に妹の宮に近づいていく。  ついに扉が開けられた時、私はとっさに手にした塩をぶちまけた。  ようやく、ソレが私を見る。  その両の目は、白目も黒目も瞳孔もない、がらんどうの闇だった。  ひたすらに濃い黒に、息をのむ。そこまでだった。  数日後、私が意識を取り戻した時には、妹はすでに妹ではなくなっていたのである。  ※  ※  ※  思い返しても腹立たしい。  私は、徹底して、何もできなかった。  目が見えるだけの傍観者でしかなく、あまりにも無力だった。 「こんなんじゃいけない」  傷だらけの顔を上げて、歩く。衆目の目を恐れているようでもいけない。  母が高名な仙人の一族ならば、私にもいくらかの素養はあるはずだ。 「私は、仙人になってやる」  仙人は、空を飛んだり病を治したり、およそありとあらゆる奇跡が使えるらしい。本当かどうかは会ったことがないので知らない。  だが、仙人を目指す道士でさえ、悪霊調伏ができるらしいのだ。  仙人になれば、アレを退散させることくらい、朝飯前だろう。  こぶしを握って、空に突き上げる。勢いは大事。だというのに、だ。 「さて、莫迦か狂人か、どちらかな?」  冷水浴びせかける声がした。  声のする方を思いっきり睨みつけると、筵を敷いて道端に座り込んだ男がいた。 「どっちもよ。悪い?」  ぬばたまの黒髪に瑠璃のような蒼い瞳。異人の血でも入っているのだろう整った相貌の男が、冷笑を浮かべている。 「さあ、悪くはないが。どうやって仙人とやらを目指すつもりだ?」 「山にでも登って、探す」 「獣の餌になるか、野垂れ死にするのが先だな。間違いない。それ以前に、仙人がいるような高山までたどり着くことさえできるまいよ」  男の言葉は正論だった。  私が言っていることはあまりに荒唐無稽だったし、実現の可能性が低すぎる。 「じゃあ、どうしたらいいか教えなさいよ」 「嫌だね。私に何の得もない」 「対価なら払うわ。私の目的を達成する方法を教えてくれるなら」 「咎人に、何が払えるというんだ?」 「私の命を、生涯を。血肉のすべてでも、何もかもを」  蒼眼から、笑みが消えた。  代わりに蔑むような呆れたような色が浮かぶ。 「正気か」 「いいえ。私は狂人だと、最初に言ったのはあなたじゃないの」 「なるほど、その通りだ。狂人の狂気ならば、常人の正気と同じことだろう。名は?」 「私の目的も聞かないのに、どうやれば実現できるか、判断できるの」 「仙人になれば、達成できるのだろう。仙人など空想の産物だ。そんなものになれるかどうかは知らないが、道筋を辿るのに私以上にふさわしい者はいないよ」  再び薄笑いが浮かんだ蒼眼を、じっと見つめ返す。  信じていいのか、ただの戯言か。  どちらだとしても、私に選択肢などない。 「(げつ)玉桂(ぎょくけい)」  男は懐から白い紙を一枚、取り出した。  立ち上がると、存外に背が高い。見上げなければ視界には顎ぐらいしか入らない。 「いいだろう。顔を上げろ」  言われずとも、上げている。負けん気の強さだけなら、誰にも負けない。  男が手を伸ばす。そのまま、焼けたまま放置された額を、ざらついた紙で拭われた。  明らかに手当てではない。むしろ今ので肉がそげた。 「痛っ!!」  本気で抗議しても男はどこ吹く風だ。  さらさらと紙に何事かを書き付け、陶器の小瓶に詰め込んだ。 「これでお前は私の(どれい)だ。私の言葉に逆らうことはできない」 「わかった」  自分で提示した条件だ。否はない。 「ついてこい」  背を向けた男の後ろを、一歩下がってついていく。  なぜ、このようなことになったのか、正直なところ分からない。  上流の家に生まれつき、蝶よ花よと育てられ、皇帝の妃にまでなった。その果てがこれだ。  人生、何が起こるか分かったものではない。  一つだけわかっているのは、今日が私の人生の終わりではない、ということだけだった。  多くの人間が羨んだ地位も身分も、すべてを失くした。  今日から私は、自分の身しか持たない、一人の人間にすぎない。  いや、もはやその身すら売り飛ばした私は、一人とさえ呼べないのだろう。  それでも、諦めさえしなければ、何とかなる。ならないかもしれないが、諦めたら終わりだ。  だから私は前を向いて、自分の足で歩くのだ。
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