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──それはそれは美しい楽園がありました。
水面きらめく小川のほとりに、広い広いお花畑。小鳥のさえずりと、幼い天使たちのはしゃぎ声が微かに聴こえます。すずしい風は子守唄のように色とりどりの並木をそよがせ、深緑の絨毯は天使たちの爪先をやわらかく包み込みます。
そして、ほのかに漂う甘い果実の香り。
「エバ!」
ほがらかで優しい声が響きました。頬を伝う汗を拭いつつ顔を上げると、その声そっくりのあたたかな笑みを浮かべたあなたが駆け寄ってきます。
「アダム」
私はその名が好きでした。
幼い頃、この果樹園の木陰で泣いていた私に、彼は葡萄をひとつぶ差し出しました。私たち卑しい天使に、神が毎朝恵んでくださる葡萄です。
同じ身分らしき見知らぬ子供に、私は『いいの?』と訊ねました。
数粒の葡萄だけで、私たちは一日中働きます。お腹がすいて泣いている子供をたくさん見てきました。
私は他に悲しいことがあって泣いていたのですが、彼にいいよと頷かれた瞬間、嬉しくてますます泣いてしまいました。
どうして泣いているの、とは、訊かれませんでした。ただ隣に座って頭や背中を撫でてくれました。
その、華奢な身体に似合う真っ白な手のひらと、大人びた微笑みが、大好きな姉を思い出させます。
今朝、姉は毛布の上で冷たくなっていました。
『私たちにもお葬式があればいいのに』
私は空を見上げて言いました。青くて綺麗で残酷な空でした。
がりがりに痩せた姉の身体を、ご主人様は家の裏庭に埋めて、その土に聖水を撒きました。そうしないと、姉の穢れた血が染み出してくるのだそうです。
天使はどうして死ぬのでしょう。
飢えているはずの私と彼の身体は透き通って、美しく健康的です。姉も昨夜までは彫刻のようでした。
なのに、心の底から『死にたい』と願ったときだけ、天使は衰えて死ぬことができるようなのです。
『大人になったら、お墓をつくれる世界に行こう。僕らの遺体を埋めてもらって、素敵なお墓をつくろう』
私は彼の顔をじっと見つめ返しました。
ここから抜け出す方法がある、という噂は、天使の誰もが知っています。
『もしここを抜け出せたら、私と一緒に生きてくれる?』
『いいよ。一緒に生きて、一緒に死にたいって願おう。自由な天使になろう』
僕の名前はアダム。そう囁かれたとき、胸の中にあたたかな霧がこもりました。繊細な心を包み込んでくれる、おだやかで頼もしい響きです。
『私はエバ』
『エバ! 素敵な名前だね』
木陰に隠れて、彼はそっと、私の唇にキスを落としました。やわらかくてくすぐったい、それは秘密の約束でした。
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