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"教えてやろうか?"
しなやかな黒猫みたいな声だと、最初は思いました。
「誰?」と訊いても返事はありません。
ただ、「こっちだよ」と。微かに笑みを含んだ声でした。大勢の天使が働かされているはずの広い果樹園で、その瞬間だけ私はひとりでした。
前方の木が揺れて、林檎がぽとりと落ちました。拾い上げて籠に入れると、また前方でぽとり。
「こっちだ」
どこからともなく降ってきたその声は、私を果樹園の最奥へと誘ってゆきました。
「あなたは誰なの?」
「こっちへ来たら教えてやるよ」
「教えて。天使? それとも……」
私はそこで足を止め、はっと息を飲みました。
純白の塀と門扉が見えます。彫り込まれているのは、剣を手にしたふたりの天使と、男とも女ともつかぬ、立派な翼をもった──神様。
そう、神様以外、立入禁止の場所です。
ご先祖様のお話が一瞬で頭を過ぎり、後ずさった私は何かにぶつかって、悲鳴を上げそうになりました。
その私の口を、誰かの手のひらが塞いだのです。
「騒ぐなよ、天使ちゃん」
背筋がぞくっとするほど近くで、男の人の低い声がしました。
耳にかかる吐息から、微かに甘い匂いがします。
こんな抱き締め方をされたのははじめてで、私は泣きそうになりました。
私より美しくておとなしい天使はたくさんいるし、ずっとアダムがかばってくれたので、私の身体は綺麗なままだったのです。
誰だか知りませんが、私は逃れようともがきました。急にぱっと手を離されて、勢い余った私は目の前の壁にぶつかってしまいました。
「……あ」
逃げ場がないのです。私はできる限り目を細めて振り返りました。誰かを睨んだのは久しぶりでした。
「おっと、怖い怖い。威嚇のつもりか?」
男の人はへらへらと笑いました。瞳も唇も三日月の形をしています。漆黒の布を纏い、無造作に伸ばした黒髪は濡れたようにつややかです。
「天使ちゃんの髪、クリーム色でふわふわしてて、綺麗だなぁ」
彼が私の髪をすくって、口づけを落としました。天使に黒髪はいないはずです。それなら、やっぱりこの人は。
「俺は人間じゃねぇよ」
私の心を読んだように笑う唇は、不思議な赤色をしていました。毒々しくて、笑いかけられるとぞっとする赤です。
「じゃあ、あなたはいったい……」
「天使ちゃんに頼みがあるんだ。あれ、取ってくれないか」
彼が指差したのは、塀の向こうでした。あれ。
「あれって、まさか……」
「天使ちゃんなら取れるはずなんだ。手伝ってくれよ」
「だめ、だめですよ。絶対にだめ! そもそも、あなたはだれ……」
また口を塞がれました。でも、感触がさっきとは違います。
少し硬くて、厚みのある唇。アダム以外の唇の感触を、私は知ってしまいました。
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