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「……!?」
とっさに突き放そうとして、叩いた胸にぎゅっと抱き寄せられました。肌も唇も、どこかひんやりしているのに、その隙間からすべり込んできた舌は熱くて、生き物みたいでした。
舌? そう、舌です。私は困惑しました。
唇を触れ合わせるだけでいいのに、私はどうして口の中までかき乱されているのでしょう。ぬるぬる、全身を蛇が這い回っているようなぞくぞく感がありました。
息苦しくなってきて、なんだか両脚の力が抜けていくようで、私はふるえながら抵抗しました。怖い。私の知らないことを、アダム以外のひとに教えられるのが怖かったのです。
彼はようやく唇を離してくれました。彼の真っ赤な舌の先端から、銀色の唾液が細く糸を引いています。黒猫ではなくて、彼は黒蛇でした。
そうして、あれほど嫌だった蛇の這い回る感覚が消えると、とたんにさびしい気持ちに襲われたのです。空気が冷たくなったみたいに、私の身体だけが妙に火照っていました。
息を切らした私を見て、彼は小馬鹿にするように笑いました。
「悪魔の存在、天使は知らないんだったっけ?」
「……あくま?」
「この塀の向こうには林檎の樹がある。善悪の林檎の樹だ」
善悪の林檎──それは、この世の善悪を知ることができる林檎だといいます。
私たち天使は、善悪を知らないのだそうです。
楽園では神様の言うことが絶対です。私たちは生まれつき奴隷であることに不満を抱きながらも、神様を殺して自分が新しい神様になろう、などとは考えません。
そこが人間と天使の違いなのだと、彼は言います。
「天使の善悪ってのは、世界の善悪じゃない。神が天使のためだけにつくった勝手なルールに過ぎないんだよ。だから自分の心で善悪を判断できない」
彼はむずかしい話をしました。天使は無垢すぎて、ルールが無ければ簡単に悪に惑わされてしまう。だから楽園に閉じ込めたのだと。理性がある故にいがみ合う人間のために、純粋培養された癒しの存在が必要だったのだと。
それじゃあどうして奴隷なんてつくったんだろう、と私は思いました。
天使は天使を殺しません。毎日代わり映えしない幸福を享受するだけで生きていける者たちです。奴隷なんてつくらなくて良かったのに。
奴隷をつくったのは彼かもしれません。果樹園の管理人だったあの女性の天使に、彼はどこからか手に入れた、楽園から抜け出す方法を教えたのです。
そうして誰もいなくなった果樹園から、善悪の林檎を盗み出して食べ、彼は最初の悪魔となりました。
天使だった頃、彼は神様のいちばんのお気に入りだったそうです。だからそのとき、罪を犯した天使を奴隷にしよう、と吹き込んだのかもしれません。私に理解できたのはそれくらいでした。
「……じゃあ、あなたは、楽園から抜け出す方法を知ってるの?」
天使たちの間で噂されているのは、楽園の縁から飛び降りる、というシンプルな方法でした。
成功した天使はみな楽園に戻ってこないから、当たり前ですが細かいことはわからないのです。
「名前が必要だ」
「名前?」
「ああ。天使は楽園を出ると翼が灼けていく。天使の力を失うからな。空の底に叩きつけられる前に、お互いの名前を呼ばなきゃならない」
彼の指先が私の顎をすくい上げました。
あのとき、私はどうしてあんなことを口走ったのでしょう。
ただ自然に、彼の潤んだように黒々とした瞳の奥へと、意識が吸い寄せられてしまいました。
「……あなたの、名前は?」
悪魔は妖艶に微笑んで、私の耳元に唇を寄せました。溶けるような囁き声がしました。
「ルシファー」
その瞬間、私の手には赤い林檎があったのです。
いつも収穫しているのとは比べ物にならない、赤黒いほどに熟れた大きな林檎。強く、甘い香りがします。
「ありがとな。助かったよ」
彼がその林檎を奪ったとたん、背後から風が吹き込みました。振り返って、真っ青になります。扉が開いているのです。
管理人の血を受け継ぐ天使が心をゆるしたとき、禁断の扉は簡単に開いてしまったのです──。
「……嘘、でしょう?」
呆然とする私に向かって、天使たちが駆けてくるのが見えました。声を荒らげています。私は裏切り者になったのです。
あの黒く美しい悪魔はもう、姿を消してしまったようでした。
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