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平日のせいか、海岸にいる人はまばらだった。
海水浴を楽しむ親子。日傘をさし、愛犬との散歩を楽しむ女性。波打ち際で写真を撮る高校生。そして、その合間を縫うように浜辺を歩く、俺と彼女。
ああ、日本はなんて平和な国なんだろう。そんなことを、ふと思う。
「海、綺麗だね」
彼女の明るく朗らかな声が、波の音に溶けていく。
「うん。綺麗だな……」
あんなことを打ち明けた直後なのに、心は不思議と穏やかだった。
「あれー? 愛子じゃなーい?」
背後から聞こえた女性の声に、彼女が振り返った。
「あ、やっぱり愛子じゃん! じゃなくて、今は『あゆみ』ちゃんだっけ?」
振り返った先には、俺たちと同い年くらいの男女が数人、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「……俊介くん、行こう」
無視して俺の手を引く彼女の声は、さっきまでと違って、暗く冷たい。
「レンタル彼女やってるんでしょー? 自分のこと『可愛い』とか思ってるのかなあ。いじめられっこのくせに調子乗ってるよねえ」
「マジそれな! 『彼氏』サン、こんな子にお金と時間使っていいのー?」
「聞かなくていいよ。行こう、俊介くん」
「だってコイツさあ、根暗だしリスカ……」
「うるさい!!」
一瞬にして、その場が静まり返る。繋いだ掌に汗が滲み、肩でハアハアと息を切らす彼女が、怒りで震えているのがわかった。
彼女は俺の手を離すと、走り出した。
「あゆみちゃん!」
あわてて、後を追いかける。
彼らから遠く離れた場所まで走り続けると、やがて波消しブロックの陰に隠れるようにしゃがみ込む彼女を見つけた。
「……大丈夫?」
そっと声をかけると、彼女は力なく「あはは……」と笑う。
「みっともないところを見せてごめんなさい。言われたくないことだったから、つい大声出しちゃって……」
「あの人たちは……?」
「高校時代のクラスメイト。私をいじめてた人たちだよ。こんなところで会うなんて、最悪だなあ」
「その……『リスカ』って……」
彼女は、袖を捲り上げて俺に見せる。その白くて細い手首には、まっすぐな赤い線が何本も刻まれていた。
「ダサいでしょ。こんなことやってるの、私。こんな自分が嫌で、誰かの彼女になったら自分のことを好きになれるんじゃないかって思って、レンタル彼女になったの。愛されたいって欲求を満たせるかなって。でも、誰と歩いていても不安で」
ああ、なんだ。そうか。
「……だから、人に傷つけられたあなたの痛みも、拒絶したくなる気持ちもわかるから、『キモイ』なんて思わない」
同じだったんだ。この子も。
俺と同じで、自分に自信が持てなくて、他人が怖くて、それでもそんな自分から抜け出そうともがいている。
「ダサくないよ」
そう言って、彼女の頭をそっと撫でる。しゃがみ込み俯いたままの彼女の体が、ピクリと揺れた。
「わかってくれて、ありがとう。……俺、間違ってた。人は顔じゃなくて、内面がその人そのものなのに。『可愛い』っていうだけで勝手に拒絶して、その人の中身なんて見ようとしてこなかった」
彼女を初めて見た時に走った直感の意味が、今ならわかる気がする。
「一生懸命に生きる君は、とっても綺麗だよ」
彼女が勢いよく顔を上げ、俺を見た。
ああ、やっと見えた。
大きな瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちている。
「ありがとう……」
彼女は、泣きながら笑う。その顔は、やっぱり可愛くて綺麗だった。
やがて差し出した俺の掌に白い指先が触れると、そのまま重なり合ってしっかりと繋がる。俺たちは再び、浜辺を歩き出す。
「あゆみちゃん、金平糖あるけど食べる?」
「……なんで金平糖? ふふっ」
大丈夫。きっと、今日から変われる。
不器用に生きる俺たちをそっと見守るように、海は優しく輝いていた。
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