卒業式、マダ?

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卒業式、マダ?

 土曜日、妻と息子と家を出た。余所行きの格好をして出かけるのは、おそらく母親の葬儀依頼ではないだろうか。  ここ数日、天気の悪い日が続いたが、ありがたいことに今日は雨も上がり、上着が要らないような春の陽気に早咲きの桜でもあれば記念撮影ができると期待をするよりも、傘を持たずに出られたことへのありがたさのほうが上だった。  卒業式、それも高校の卒業式ともなれば形式的な行事の典型であり、ありがたいことに休むことなく高校に通った息子には、感無量というよりは、ひとつ大きな仕事を果たせたという安堵の気持ちが私たち家族にはあったものの、そういった記念的なことに心が付き合うようなこともなかったので、親戚の家に遊びに行くよりもはるかに気楽な気分であったことは間違いない。  ただ、どうしてこんな日に『涙食らい』がついてきているのか、それだけが唯一の不安――というか、期待ではあった。  涙食らい――その愛嬌のある毛むくじゃらの容姿をした怪異は、人の涙を食らう妖怪である。その姿は私にしか見えない。透き通るような白い毛の間から目と思しい青い丸が一つ、じっと私を見ている。それは二本の足があり、歩くこともできるが、そのまま宙に浮くこともできる。私の見た目には、それは人や物にぶつかる。だが不思議なことに相手はそれを気づかない。物の傷ついたり傷んだりしない。  思うにこれは私にしか見えず、私にだけそのように見えているだけなのだ。私が見ている世界に『涙食らい』という歪みが生じ、しばしば私を驚かせ、時に私を感心させる。 「卒業式、涙ノ匂イスル」  それは言葉を発するが聞こえているのは私だけである。 「食ベテイイ?」 「食べちゃダメ」  それとは言葉を交わすことができる。決して私に危害を加えることはないし、勝手に涙を食べたのは一度きり、最初にこの謎の怪異に出会ったときだけである。それも厳密に言えば私の意に背いたわけではない。  小学校の正門前、ズル休みのために泣きじゃくる息子に私は子供っぽい悪戯心でこの怪異を呼んでしまったのである。 「ほら、怖いお化けがナミダチョウダイって言っているよ。いつまでも泣いていると食い殺されちゃうぞ」 「チガウ、ナミダモラウ、イノチイラナイ」  涙食らいは息子の涙を食らった。息子は泣き止んだ。そしてそれ以来、息子は嘘泣きをして学校を休まなくなった。というより、泣けなくなったのだろう。涙食らいに涙を食べられると、その涙の源泉がおそらく枯れてしまう。息子が学校に行くのを嫌がって泣いていた涙の源泉は、宿題や課題をやってないことへの恐れであったのか、それとも別の何かなのかはわからない。  そもそも『涙食らい』と私が名づけたそれがいったい何者なのかもわからないのだが、以来10年余り、私は人が涙する場面に出くわす直前にその謎の怪異は姿を現し、私に尋ねるのだ。 「食ベテイイ?」  私はそのたびに、その涙の意味を考えるようになった。人はなぜ泣くのだろう。なぜどうしようものなく涙がこぼれてしまうのだろう。  日本橋で乗り換えて最寄の駅に向かう。  それなりの人ごみの中で涙食らいは白い毛がたゆたう。それは美しいというには滑稽であるが、息子の卒業式に同席してくれるというのであれば、それはそれで感慨深いものがあった。だから私は少しだけ気分がよかった。  駅から学校までの道は大通りをまっすぐ隅田川沿いに歩けば使うのだが、時間があったので少し道を外れて学校近くで桜が最低そうなところを探してみると、桜並木のなかの一本の桜がしっかりと花を咲かせていた。 「卒業式、マダ?」  涙食らいは待ちきれない様子で私に付きまとっている。 「まだだ。それに、式が始まっても勝手に食べちゃダメだぞ」 「アーイー」  涙食らいの会話は拙く、理解力はそれこそ言葉を覚えたての子供と同じくらいか、それよりも下かもしれない。こちらの質問には何も答えず、来るなといっても付いて来る。しかし、涙を食べるかどうかの言うことだけは必ず聞いてくるし、ダメといえば、物欲しそうに眺めておねだりをすることはあるが、勝手なことはしない。  そのおねだりにも意味があることに気がついたのは、最近のことだ。
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