序.始まりの風

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序.始まりの風

 爽やかな風が吹いていた。木々が揺れて、さわさわと心地のいい音色を奏でている。 「宝良、俺は向こうに戻るが……大丈夫か?」 「大丈夫、心配はいらないよ。父さんも仕事が大変だろうけど、一人だからって食事をカップ麺で済ますのはやめてくれよ」 「うっ……わ、わかってる。しっかりと野菜は摂れ……だろ」 「ハハッ……体に気をつけて」 「ああ、お前もな。母さんのこと、頼む」 「ん」  手を振って、遠くなる車を見送る。これからしばらく、父とは会えない。田んぼ道を過ぎ、坂の向こうに消えていった父に、心の中で感謝をすると、宝良は体の向きを変えた。  改めてその全体を視界に収める。  今日から通うことになった高校――水宮高校。校門を越えた先には大きな桜の木があり、花をつける時期が過ぎた今は、美しい新緑が太陽光を浴びて光り輝いていた。きらきら、粒が見えて眩さに目を細める。 「お父さんとの別れは終わったか」  一人の若い女性が腕を組んで、仁王立ちしていた。とても勇ましい感じだ。 「私は矢後明奈(やごあきな)。君の担任だ。教科は体育。気軽に明奈先生と呼んでくれ」 「明奈先生……」 「よし! いい子!」  声を張った明奈は、にかりと笑った。 「では教室に案内しよう」 「お願いします」  大股で歩く明奈の後ろを、宝良は早足でついていく。  これから始まる新しい生活。自然と、胸はどきどきと高鳴り緊張してきた。そんなに緊張するタイプではないのに、と。心を落ち着けようと、心臓に手を当てる。 「緊張か? ここの子たちはみないい子だ。きっと仲良くできるさ」 「そうだといいです」 「うむ。君のお母さんは入院してるんだったか」 「はい……一応母と一緒に引っ越しては来ましたが、実際はひとり暮らしになります」 「そうか……それは大変だ。何かあればいつでも相談に乗ろう」 「ありがとうございます」  生徒思いの先生だ。宝良は口角を上げた。  さて着いたぞ、と明奈が立ち止まる。二年B組。見上げた視線を戻し、教室のドアを見つめる。  がらり――開かれた先、一斉にこちらを向く、たくさんの目。 「よーし、みんな席についてるなー? 話をしていた通り、転校生を紹介するぞー。さ、入って自己紹介だ」  宝良は一礼すると、教室へと踏み入れた。 「仲村渠宝良(なかんだかりたから)です。よろしく」 「なかんだかりぃー? どう書くんだー?」  真ん中辺りに座る男子が、聞くほどは興味ないけど、と言いたげな顔で問う。  宝良は明奈からチョークを受け取ると、彼らに背を向け黒板に線を走らせる。整った字が並ぶと、宝良はまた体の向きを変えた。 「こう書く。なかんだかりでも、なかむらでも、たからでも。好きなように呼んでくれ」  それじゃ席に、と明奈が指差したのは、窓際の一番後ろ。じろじろ、ひそひそ。そんなざわつきを感じながら、宝良は席に座った。ふう、と一息。  少しだけ開いていた窓から涼しい風が入って、優しく髪を揺らした。  自然が多いからなのか、以前いた所よりも空気が美味しい――これなら、母もゆっくりと穏やかに過ごせるだろう。お見舞いに甘いものでも買って行こうか。  涼やかな風を味わうように吸い込んだ。
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