5 郵便局と基金

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 横浜にある某郵便局本局郵便課に勤務していた頃、年度変わりの異動発表直前、椎名貴生は突然の解雇を申し渡された。  二十二から勤めて五年目、当時二十七歳、しかも、二年前に結婚したばかりだった。  理由がよく、分からなかった。  人員整理だと上は言っていたが。人事異動はあったものの他に辞めされられた者はいない。 「タカさん、課長に何か睨まれたんじゃねえの?」  同僚の三田村がそっと囁いた。  覚えがない。ただ、ここ数週間前から、課長がほかの上司と何か話しながら、ちらちらとこちらを見ていたような記憶はあった。課長はインケンな男だったが、自分だけ特に目をつけられている記憶もなかった。  それがなぜ急に?  スリッパにゴキブリを仕込んだのだって、オレじゃない。三田村たちがやったのは知っていたが、告げ口しなかっただけだ。椎名も何とか、って聞こえてきたような気もしたが、取るに足らぬ話だと完全に無視してしまった。まさか本当にあの件で疑われていたのか?  しかし今さら言い訳はきかないだろう。上とまた話をするのもイヤだ。  妻の由利香に何て言おう。  公務員は安定してるから、が口癖の由利香。 ―― 別に公務員だから結婚したってワケじゃあないけど、やっぱりダンナの仕事は、安定してるに限るわ。  とんだ安定だった。豪華客船から、自分だけ転がり落ちたヤツもこんな気分だろうか。  妻に対する言い訳を考えかんがえ、とぼとぼと家まで帰る途中、 「シイナくん」  声をかけたのが、彼だった。  貴生は力なくふり向いて、立ち止まった。  全然見たことがない人物だ。 ……いや、ちらりとどこかで会ったな、どこだろう? 「どちらさん?」 「覚えてますか?」  頭の中に過去映像がいくつかよぎる。間に何かテーブルか、狭い机があった? 紙類も。がやがやしていて、気がせいていた。相手はのんびりして、財布を。 「切手をセットで買った……」  いつのことだったか、記念切手をあるだけ下さい、と一万円札を三枚出した人だ。 「ああ」  つい愛想よく挨拶しようとしたが、自分が今日、解雇予告を受けたのを思い出し急に冷たくなる。 「何か用ですか」  今さら切手を返す、と言われても困る。 「って……何で名前まで?」 「名札、ついてましたから」  相手は温和な感じの紳士だった。歳の頃は五十台半ばくらい、背は彼より少し高く、横幅もある。身のこなしがスマートで、身軽な感じをうけた。  そして終始、笑顔を浮かべている。  しかし、油断は禁物だ。消費者金融のお勧めかもしれない。 「すみません、急いでますから」  冷たく言い捨て、家路につこうとしたところを 「奥さまに、解雇のことを話すんですか」  完全に歩みがとまった。眉間に力が入る。  ゆるゆるとふり向いて聞いた声もとがる。 「どうしてそれを」 「奥村くんから聞きました」  オクムラ? 誰だそれは?   心の声を見透かしたように、男は付け足した。 「局長の奥村くんですよ」  局長を『クン』づけかよ、どんなに偉いんだオノレは。 「昔からの付き合いなんです。それより、私はこういう者です」  名刺を出してきた。貴生の持ってたものよりも、倍は厚そうだ。 「なに……ミロク?」 「読み方は『マイロック』です」  聞いたことねえ。食ったこともねえし。 「マイロック、東日本支部支部長 中尊寺(ちゅうそんじ)清孝(きよたか)」  何だか、仏教系の人だろうか? そう言えば、この顔、どこかで見たようだと思ったのは、どっかの寺にある仏像だ。でかいヤツ。 「はあ」  貴生は、名刺を右手にはさんだまま、片足ずつに重心を掛け直して次の言葉を待った。この会社が何か買ってくれというんだろうか? 「何を売ってるんです? 布団とか?」  聞いてみた。  何を商っているのか知らんが、オレにはそんなモノ買う余裕はない。 「いえいえ」  面白そうに相手は両手を振った。 「実はね、アナタにうちで働いていただきたくて……スカウトに来たのです」 「スカウト?」  布団を売れだって? それとも金の先物取引か?    その後、どうして話を聞いてしまったのかがいまだに大きな謎だ。  そして今、気がついたら彼はここにいる。
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