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闇に沈んだ山とは想像していた以上に恐ろしいものだと、獣道を5メートルほど進んだところで、印南は猛烈な後悔が押し寄せてくるのを感じた。次第に遠退く車のエンジン音と人工的な光。代わりに聞こえてくる、正体不明の物音。足もとの闇は深く、慎重に進まなければ足を捻ってしまうだろう。
……いや、そんなことより、恐ろしいのは幽霊だ。山にはたくさん霊が集まると聞いたことがある、ような気がする。人間の霊だけではない、動物霊といわれるものがいて、人間のように理屈が通らないから尚のこと厄介な霊である、と、誰かが言っていたような気がする。
(そっ……そもそも、人間の霊にも理屈なんぞ通るんかっちゅう話や。怖いからやめてください言うても、やめんのがれれれれ霊じゃろ)
だいたい動物霊というのは一体なんなのだ。この山に住んでた動物が霊になるというのか。だとしたら、キツネとタヌキの霊には気を付けねばならない。あいつらは人を化かすというから──
「リスの幽霊」
「んぎゃあああっ!」
突如耳もとで囁かれ、印南は文字通り飛び上がると尻餅をついた。いわゆる「腰を抜かした」というやつだ。
じんわり滲んでくる涙でぼやけた視界に、見慣れた顔が近付いてきた。
「大きな声出さないでよ」
「あっ……あまっ、あまっ、あまっ……」
泣きべそをかく印南の頭をぽんぽんと軽く叩き、天音は屈めていた腰を伸ばした。ゆっくりと視線を巡らせれば、驚愕という表現がぴったりな表情の武藤と目が合った。
「天音、さん……」
「お会いするのは初めてですね。どうも、天音です」
「なぜここに」
「予想より、早く準備が整ったので」
屈託のない笑みを浮かべながらそう言うと、天音は腰を抜かしたままの印南の腕を掴み、ぐいと引っ張り上げた。
「そんなにリスの幽霊が怖いの?」
「こっ、こここここ……」
ああ、またニワトリになってしまった。
「ビジネスホテルに行かれたのでは」
強張った武藤の声に、再び視線を戻す。
「その前に、ちょっと寄り道」
どこかで聞いた台詞だ。一体どういうことかと、武藤の目がうろたえたように天音と印南を行き来する。
「あの……八雲さんは……?」
「寺崎さんと一緒にいる」
その答えに、しぶしぶながらも納得したのか、武藤はそれきり押し黙った。
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