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年の頃は20代後半。
ちょっとだけ毛先にウェーブがかかった柔らかそうな猫毛は染めてない黒髪だが、光の加減でこげ茶に見えるようだ。
前髪が長いせいなのか、黒い縁取りのメガネがすぐ隠れてしまい、煩そうに前髪を掻き上げた。
「君、早く帰りなよ。ここの受付は6時で終わりだから、こんな時間まで残る必要ないんだよ」
と、良い感じのテノールが耳に響いた。
メガネの奥の目はちょっとだけ垂目気味の二重で大きくて優しそうに見えた。スッと通った鼻梁。シャープな顎と形のいい唇。
きれいな形の額が掻き上げる髪の毛の間からチラリと見えた。
新人なので分からないと言うと、日報をチラッと覗いて、
「それで上等。もっと簡単でもいいよ」
と言ってくれた。
男性が長い指で隣のページを指す場所をよく見ると、もっと簡単に書いてあり、更に言うなら雑だった・・・
麗奈は目の前の事に夢中になると周りに注意を払うことを忘れ、手掛けているものに全力投球するようなところがある。
今回の日報も、先に先輩の書いたものをよく見ていたらもう少し楽だったかもしれない。
ちょっと恥ずかしくなって笑って誤魔化した。
「じゃあ、お先に」
そう言って去っていく男性の背中を見送りながら、今日会った人の中で1番親切な人だったかもしれないな、と思ったら。
胸がキュンとした。
「あれ? なんで?」
よくわからない。
――え、心不全? じゃないよね。
そこに清掃のパートのオバちゃんがやって来た。
「あら、神谷さんだね」
と呟いたのが聞こえ、またしても胸がキュンてする。
「あの、あの人知ってるんですか?」
「あら、新人さんかい。宜しくね」
「ハイ」
「さっきのお兄ちゃんは経理課の神谷さん。30歳にはなってないと思うけど。あの子、優しいんだよねえ。アタシら清掃員にも挨拶ちゃんとしてくれるしねえ。重い荷物とかも運んでくれるしさ」
「そうなんですね」
「独身で課長さんでしょ? ここだけの話だけど隠れファンもいるみたいよー。でもさ、ありゃあ女側がハッキリ言わないと気も付かないね」
手をパタパタ振りながら嬉しそうに話す清掃員。
「アンタ可愛いから、頑張っちゃってみたらどう? アタシはあの人はお勧めよ。娘がいたら捕まえてこいって尻叩いてるわ」
ケラケラ笑うオバちゃん。
何だか胸が痛い。
じゃあね~早く帰りなさいよね~と去っていくオバちゃんを見送りながら、頭の中は
『神谷さん・経理課・独身・多分フリー』
という情報がずっとぐるぐる回っていた。
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