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地獄から天国に。
そしてまた地獄に突き落とされるような感覚。
足元さえ覚束ない。
俺は言われるがまま消毒手洗いをして。
簡易の手術衣を来て再び分娩室の前に戻ってきた。
その時。
口元を抑えて若い看護師が飛び出してきた。
何があったというのか。
でも、母子共に生きている。
それだけでいいじゃないか。
生きているだけで素晴らしい。
そう、自分に言い聞かす。
「奥様は今は疲れ果て、気を失ってます。労いたい気持ちはわかりますが、どうかお静かに」
俺は医師に導かれるまま室内に足を踏み込んだ。
正直。
『おめでとうございます! 元気な赤ちゃんですよ。なんて可愛らしい』
とか、言って貰えるのかと脳裏を過ぎった。
なのに──分娩室内は機械音と処置を進めている音で静まっていた。
肝心の子供の泣き声がしない。
奥さんは分娩台の上で気を失っているようで。
酸素マスクが装着させられていた。
でも、ちゃんと生きている!
良かった。
それだけで充分だ
目を覚ましたら沢山、沢山、労おう。
心が弾む。
でも──酸素マスクの独特な空気音がするばかりで、否応なしに一抹の不安を掻き立てられた。
しかも分娩室内の人達は何故だが怯える様子で俺を見ている。
ただ息を殺すような不穏な空気があった。
そして何とも言えない生々しい臭いが鼻を刺激した。
何かおかしい。
これは。
まるで。
あの時の。
いや、今はそれどころじゃない。
俺は思い出そうとした記憶をまた深い深い所に沈めて医師に質問した。
「あの。一体何が。子供はどこに」
「定家さん。お子さんはこちらに。女の子です。
よく頑張って産まれて来てくれました。強い子ですよ」
すっと、分娩台の横にある小さな台を指差した。
そこに白いタオルに包まれた物があり、もぞもぞと動いていた。
「あ、赤ちゃんですかっ!」
俺は駆け寄ろうとしたが、医師がいきなり俺の腕を掴んだ。
「症例として! 新生児に髪の毛が生えて居ることはままあります。それに乳歯だって生えていた報告も少なくはありませんっ、そう。問題はありません!」
「あの、何が。さっかきら何を」
医師は額に汗を浮かばせながら。
顔に苦渋を広げながら。
「帝王切開はしませんでした。吸引分娩で何とか出産をしました。ですが。難産で。──妊婦が出産の時に力んで。顔が。変形して」
「!」
子供に何かあったんだと。
この時になって初めて思い至った。
子供は須らく全て元気に生まれてくるのが普通だと思い込んでいた。
「私達に出来る事は、限られているかもしれません。でも。これからも全力でケアを致します……!」
その言葉と共にようやく腕が解放されて。
俺はふらふらと我が子に近寄った。
なんで俺の子供にそんなことが。
何かの間違いではと。
俺は下手くそな笑顔をはりつけて。
「お、お父さんだよ……」
俺はそんな事を言って。
そっと顔を除きこんで。
絶叫を飲み込んだ。
「ぐっうっ」
俺は無理やり口元を抑え込んだ。
そこには。
あの日みた──小さなくだんがいた。
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