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27 王子と姫君
六と紫乃が部屋に戻ると、信じられない光景が広がっていた。
この場に残してきたのは六を棄てた元パートナーの光輝と、現在の恋人の千冬。険悪にこそなれど、和やかな空気になる訳がない。
そう思って、六は紫乃を捕まえて説得した後、急いで戻ってきたのだけれど――。
「光輝くん、今度うちの会社へお茶を飲みに来るといいよ」
「長谷川さんさえよければ、是非」
まさかのまさか。実に穏やかな会話が繰り広げられていたのだ。
「……千冬さん、人たらしだから」
うちの頑固なじいちゃんも、千冬さんの言うことは聞くからね。紫乃が六にしか聞こえない声でぽそりと呟いた。
確かに、人たらしと言われても納得の現場だ。
「ふたりとも、おかえり。外は寒くなかった?」
「ただいま。……寒かったよ」
寒かったけれど。そんなもの吹き飛ぶくらい驚いたから、六も紫乃も、もう寒くなかった。
「――六、悪かった。手間を掛けるが、お前が離婚届を出しに行ってくれるか」
俺が出しに行くと言っても信頼出来ないだろうから、と、光輝が言った。
「……千冬さん、どんな魔法使ったの?」
「僕に魔法は使えないよ?」
部屋に来たときは意味の分からない理屈でごねていたというのに、気持ち悪いくらい素直になってしまった光輝が信じられなかった。
これを魔法と言わずして、何というのか。
「……まあ、いいや」
考えることを放棄した六は、光輝から離婚届を受け取り、書類に不備がないか確認にかかった。総務という仕事柄、書類には五月蠅いのだ。
「うん、漏れは無いな。お前、翔と瑞希ちゃんとこへ謝りに行けよ」
その昔、婚姻届けの証人欄を翔と瑞希に書いてもらった。だから離婚を決めた時、真っ先にふたりへ連絡した。そしたら瑞希から「離婚届の証人欄も書くわよ」と打診があったので、先日ふたりが訪問した際に証人欄へ記入して貰ったのだ。
六にとって本郷夫婦は大学時代からの付き合いだが、光輝にとっては瑞希は高校時代から、翔は幼稚園以来の古い友人だ。いらぬ心配を掛けたのだし、光輝も謝罪するのが適当だろう。
「もう行った」
「あ、そ。瑞希ちゃん怒ってただろ」
オレの代わりに光輝をぶん殴っといてあげる、って言ってたし。瑞希の心強い発言を思い出し、六は笑った。光輝も詳しいことは言わず苦虫を噛み潰したような顔をしているから、よほど瑞希からコテンパンにやられたのだろう。
「これで今日からオレとお前は他人だな」
「……そうだな」
「じゃあ、オレのカードキーは紫乃にやる」
六は手に持っていたカードキーを紫乃へ投げた。
「え、おれ?」
突然飛んできたカードキーを見事キャッチした紫乃は、不思議そうに訊き返した。
「光輝を知りたきゃ、好きな時に来ればいい。これでいいだろ、光輝」
「――ああ。いつでも来てくれ」
「……気が、向いたらね」
紫乃はどこか吹っ切れた様子で柔らかく微笑む光輝から顔を背け、耳を真っ赤にしながらぽそりと返した。
「ん、じゃあな」
微笑まし気な視線を紫乃にやってから、六は自分の仕事は終わった、と千冬の腕を引きその場を立ち去ろうとした。
「――六」
光輝が六を呼び止める。
「何だよ?」
「今までありがとう。幸せにな」
「……お前もな!」
もう光輝にありがとうは言わない。別れを告げた夜に、六の気持ちはすべて伝えたから。
六は振り返ることなく玄関へ向かったが、六に袖を掴まれながら連行されている千冬は、残された光輝と紫乃へ胸元で小さく手を振った。
***
「千冬さん、一緒に来てくれてありがとう」
「どういたしまして。で、いいのかな」
千冬の車に戻ってすぐ、六は礼を言った。千冬はすこし疲れたようで、ハンドルの上部を持ち、頭を預けながら力なく笑っている。
「千冬さんがいなかったら、こんな綺麗に纏まらなかったよ」
光輝と円満に別れるどころか、紫乃と光輝まで繋いでしまった。
あの場にいたのが六ひとりだったら、こうも上手く行かなかっただろう。
「……僕も、必死だったんだ」
「え?」
らしからぬ暗澹な物言いに、六は思わず訊き返した。
「だって、光輝くんが本気で六を取り戻そうとしたら、きっと勝てないから」
千冬は六から視線を外し、ハンドルに顔を埋めた。
「――だから、光輝くんと紫乃くんを取り持ったのも、自分のためなんだよ」
僕はみんなが思うほど、優しい人間じゃない。
とても小さな声だった。
六の知る千冬は、優しく、茶目っ気がありながらも大人の落ち着きがある人間だ。本音を、痛みを隠し――でも穏やかに生きている。そんな千冬が弱さを見せ、自己嫌悪に陥る姿を前にし、六の胸がきゅう、と鳴いた。
「ね、千冬さん」
「……面倒なことを言っている自覚はあるんだ。でも、僕はもう、六のいない世界で生きていけない――」
千冬の湿り気を帯びた言葉付きが切なかった。
居ても立っても居られなくなった六は、助手席から身を乗り出し、ハンドルに突っ伏す千冬の頭を抱いた。
「……オレが愛しているのは千冬さんだよ。不安にさせてごめん」
六はきっちり整えられた千冬の髪を掻き分け、ちゅ、ちゅ、とリップ音を鳴らしながら、濡れた瞼に、頬に、そして唇にキスをした。
「――ふふ、くすぐったいよ」
千冬の長い睫毛にくっついた水玉が、微笑みと共に車の床へ落ちた。
「慰めてくれてありがとう。六より十五も年上なのに、情けないな」
「歳は関係ないんじゃない? だってオレは千冬さんの王子様、なんでしょ」
センチメンタルな姫君を放っておくようじゃ、王子形無しですから。
千冬は六の臭い台詞に肩を震わせて笑い、濡れた睫毛を拭った。
「王子様、このお話はハッピーエンドですか?」
「当然。姫、幸せになりましょう」
ふたりは学芸会のような小芝居でふざけた後、顔を綻ばせ合い、誓いのキスをした。
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