10 泣いて暮らすも一生笑って暮らすも一生

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10 泣いて暮らすも一生笑って暮らすも一生

(既婚者だとかそういうのは置いといて、って何だよ……! そこ一番重要だろ……!)  土曜日は千冬(ちふゆ)があまりにも熱いまなざしで見つめるので、場の空気に流されてとんでもない約束をしまった。  だが、置いたところで(りく)が既婚者という事実は変わらない。光輝(みつき)が「出て行け」と言ったのだから、好きなようにしたって罰は当たらない気もしたが、六の性格上そこをなあなあにすることは出来なかった。  千冬は多少強引だが優しい。同居を始めてたった二日しか経っていないけれど、千冬にはアルファ特有のベータを一段階下の者だと思っているようなそぶりが一切ないから、六も素直に好感が持てた。  でも、好きになれるかは分からない。だって六の心の大部分は、まだ光輝が占めているのだから――。 (光輝の運命の番って、どんな奴なんだろうな……。どうせあいつが好きそうな、いかにもオメガオメガした線が細くて美人なタイプだろ。……考えたらムカつくな、あいつほんと一回死ねばいいのに)  本気で愛していたからこそ、恨みは深い。  光輝に棄てられた金曜日から二日経ち、ようやく悲しみの絶頂から抜け出せたが、悲しみから逃れられたと思えば、今度は怒りが湧いてきた。  悲しみと怒りのスパイラルにはまり込んだ六の精神は疲れていたが、いくら疲れようと仕事はある。六は頭を無にし、職場までの道を急いだ。    数年前、入居していたビルの老朽化に伴って引っ越してきた十四階建ての十二階にあるオフィスは、綺麗で景色もいい。ビル風から逃れるように職場のビルへ辿り着いた六は、入口の自動ドアを抜け、エレベーターの上りボタンを押した。  (そま)商会は、ビジネスフォンや複合機を取り扱う通信機器の商社だ。創業五十周年を迎えるそこそこ歴史の長い会社だが、最近では時代の流れに乗ってネットワークシステムなども販売している。全社員百人弱の中小企業ではあるものの、迅速な対応と細やかなアフターサービスが好評で、規模の割に売り上げも悪くなく、福利厚生もしっかりしている所謂優良企業だった。  職場に着き、ロッカーにコートを掛け、六は日課であるオフィスコーヒーの準備に取り掛かった。  一緒に働く事務の女性陣が「会社でおいしいコーヒーが飲みたい!」と社長に頼み込んで買ってもらった最新式のコーヒーサーバーは、時間が経っても温かいコーヒーが飲める代物だ。  同じ総務でも女性社員はあれやこれやと雑務を頼まれることが多い。だから少しでも負担を減らせないか、と六が自主的にコーヒーサーバーの準備を始めたら、とても驚かれた。  母親がひとりで抱え込んでしまう性分だったので、六は自分でできることは率先してやる癖がついている。だから雑用だって進んで行うし、それが苦でもなかった。  ゆえに六は、女性社員から密やかにアイドル的な人気を博しており、またベータ男性の中ではすらりと伸びた長身に、華やかではないが丁寧なつくりの相貌が、より人気を引き立てているのであった。 「藤原さん、おはようございます!」 「おはよう。今日は交通費の締め日だから忘れるなよ~」 「藤原、おはよう」 「課長、おはようございます!」  八時四十五分を過ぎたころ、他の社員が続々と出勤してきた。  杣商会は早出も残業も出来る限りなくしていこう、という働き方なので、六のように三十分前に出社する社員は少ない。六もそれは分かっているのだが、中学・高校のサッカー部時代に運動部特有の時間前行動を叩き込まれたせいで、余裕をもって行動しなければ落ち着かなかった。    九時になり朝礼を終えれば、業務の始まりだ。  今日はビジネスフォンの入れ替え工事が入っているので、営業も工事係もバタバタしている。  慌ただしい社内を肌で感じながら、申請書類棚から回収した交通費精算書を確認していると、今日工事が入っている得意先のサブ担当者・向井(むかい)の清算書に書き落としがあった。  六は至急パソコンで向井の直近スケジュールをチェックしてから、バインダーに清算書を挟み、向井の元まで駆けて行った。 「向井、ここ抜けてる! システムのスケジュールでは〈すすき食品〉さんだったけど間違いないか?」 「あっ、済みません……! ちょっと確認しますね……!」  向井は慌てた様子で鞄からスケジュール帳を出し、当時の予定を確認した。 「そうです、すすきさんです!」 「ほら、早く書け」  胸ポケットからボールペンを取り出し、バインダーと一緒に手渡した。  向井は急いで『すすき食品』と書き込み、他に間違いがないか再度確認してから、六にバインダーとボールペンを返した。 「うん、これで大丈夫。忙しい時に悪かったな。気をつけて行ってこいよ!」 「はいっ!」  元気よく返事をし、向井は大荷物を両手に走って行った。 「藤原、向井には優しいよね。俺にも、あのくらい優しくしてくれればいいのに」 「……御影(みかげ)さんにも、優しくしてますよ?」  ――出た。  六は心の中で舌打ちをした。この男――御影が六に「オメガの代わりに抱くくらいだから、よっぽどあっちの具合が良いんだろう? 俺にも試させてよ」と言った張本人だ。邪なお誘いは丁重にお断りしたはずだが、執念深く虎視眈々と六を狙っている厄介な人物だった。女子社員やオメガなら「セクハラだ」と声を上げられるかもしれないが、ベータ男性である六は口が裂けてもそんなこと言わないだろう、と高を括っている。  六も営業部時代に面倒を見てもらった上、営業で一番の売上成績を持っている御影を無下にも出来ず、心底鬱陶しいとは思いつつ、日々大人の対応を余儀なくされていた。 『ねえ、旦那さんと何かあった? いつも月曜日は旦那(アルファ)の匂いがべったりついてるのに、今日はしない。……喧嘩したなら、俺が慰めてあげようか?』  めざとく六の体臭の変化に気付いた御影は、耳に触れるか触れないかぎりぎりのところで囁いた。  嫌悪感で鳥肌が立ち、触れられたくない部分に容易く踏み入ろうとするデリカシーのなさに、心がざらつく。  ――やっぱりアルファは信用できない。御影のようにアルファ以外を下民だと思っているような人間は、特に。 「ご心配ありがとうございます。そうなんですよ、旦那が風邪ひいちゃって」  六は笑顔を張り付け、「交通費の清算お願いしますね」と釘を刺してから自分の席に戻った。  それからは苛立ちをぶつけるかの如く猛スピードで、仕事にとりかかったのだった。  無我夢中で仕事を片づけていたら、昼休みの時間をとっくに過ぎていた。  六はブルーライトカットの伊達眼鏡を外し、目頭を押さえて目の疲れを取ろうとしたが、それよりもずっと、精神の摩耗のほうが酷かった。 (あー……。『藤原』って呼ばれるのが、こんなにきついなんて)  光輝の姓である『藤原』と呼ばれるたび、棄てられたことを思い出してしまう。  誰も知らないのだから、完全に六の被害妄想でしかないのだが、どうしても嘲笑われているかのように錯覚してしまうのだ。  ――ベータの分際でアルファと番えると思っていたのか、と。  卑屈な考えに嫌気がさした六は、気分転換がてら大好きな〈宝珠亭(ほうじゅてい)〉の醤油ラーメンを食べに行くと決めた。  食べたらきっと、元気になる。そうと決まったら早速出よう。  六は戻り時間を設定するため、スマートフォンの画面を起動した。そしたら、千冬から一件のメッセージが届いていた。 『六、大丈夫? 今日は帰りにうちの事務所へおいで。とっておきのお茶を淹れてあげる。』  まるで六が落ち込んでいることが分かっているようなメッセージだ。  我ながら単純だと思いながら、心配してくれる千冬の気持ちが嬉しくて、つい笑顔になる。 『ありがとう。楽しみにしてる。また会社を出るときに連絡します。』  泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。  自分に言い聞かせ、財布を持った六は、颯爽とオフィスから出て行った。
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