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11 熟成
宝珠亭の醤油ラーメンを食べて英気を養った六は、悠々と交通費の清算処理を終わらせられたので、十七時半ごろにコーヒーサーバーを片付けて、定時の十八時きっかりにオフィスを出た。
これから千冬の職場へ向かう。詳しい場所が分からないので名刺に書かれた住所をスマートフォンの地図アプリに打ち込んでみたら、千冬が経営する会社の事務所は杣商会から東へ歩いて十五分の所にあるようだった。
十一月は夕方を過ぎると一気に冷える。
六は通り道のパティスリーで手土産に焼き菓子の詰め合わせを買うと、ビル風が強く吹きさらすオフィス街を急いだ。
辿り着いたのは、コンクリート打ちっぱなしのスタイリッシュな二階建ての建物だった。
ここで合っているのか不安になったが、オリーブ材にシンプルな字体で『trinken』と書かれた表札を見つけたので、黒枠にガラスがはめ込まれたドアをノックして中へ入った。
「こんばんは」
「いらっしゃい、寒かったでしょう。さあ、座って」
カフェか雑貨店に見える建物の室内は、ほんとうにカフェのようだった。カウンターは温かみのあるパイン材で、キッチン後ろの棚にある食器や、コンロにかけられ湯気を上げているベージュの琺瑯ケトルも小洒落ており、センスの良いオフィスだな、と思った。
とりあえず座ろう。六はカウンター越しに手土産を渡してから、脱いだコートを高い脚の椅子の背に掛け、そっと座った。
「気を使わなくてよかったのに。ありがとう、ここのお菓子好きなんだ」
「そう? よかった」
にこにこ感じ良く礼を言う千冬が、人として好きだと思う。物腰の柔らかさもそうだが、千冬の言葉には棘がないし、何より穏やかだ。
手を出そうとした千冬が悪いとはいえ、六が頬を打ったり腹部を殴ったりしたのに、一切声を荒げなかったところには尊敬の念さえ抱いている。もしも光輝に同じことをしたならば、お互い一歩も引けず、殴り合いの大喧嘩になっていただろう。
「六。今からこのお茶を淹れるよ」
カウンター越しに千冬から手渡されたのは、包み紙に中国語が印字されたずっしり重い塊だった。
「これ、お茶なの? うわ、硬っ!」
お茶に明るくないので、触ってみても何かわからない。六は重さを確かめて、すぐ千冬に返した。
「そう、十五年物のプーアル生茶。いつもお世話になっているお茶屋さんから『いいものが入った』って連絡があってね。つい、衝動買いしちゃった」
包み紙を破けば、深い山のような香りが広がる。千冬は千枚通しに似た専用の削刀を手に取ると、硬く固められた茶の塊を崩しにかかった。
ざく、ざくり。茶葉を崩す音だけが聴こえ、ふたりの間に会話はない。
でも、千冬がつくり出すゆるやかな時が流れる空間に、六は不思議と安らぎを覚えていた。
茶葉を崩し終えれば、ほぐしにかかる。ちぎらないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと。
それから温めておいた中国茶の急須に、今しがたほぐした茶葉を入れ、熱湯を注ぎ、すこし置いてから湯を捨てた。これをもう一度繰り返して洗茶がなされ、みたび熱湯を急須に注いだところで、お茶が抽出されるのだ。
こうやって複雑な工程を経たお茶を、茶海と呼ばれる中国茶用のピッチャーに移し――ようやく茶杯にプーアル茶が注がれた。
「千冬さん、すごいね……」
流れるような手の動きに、思わず六は唸った。
「ありがとう。これも仕事のうちだからね。はい、どうぞ」
茶托に乗せられたプーアル茶を受け取り、ひと口こくり、と飲んだ。
それは若い芽のようにも枯葉のようにも感じる深みのある味で、目を閉じれば、霧のかかった山深い茶畑が見えるようだった。
丁寧に淹れてもらったのだから、と、六はゆっくり、舐めるように味わった。
「プーアル茶はね、お茶の中で唯一発酵に微生物の助けを必要とする。でも、そのお陰で何十年も熟成することができて、複雑な味と香りが楽しめるようになるんだよ」
――ああ、千冬さんがこのお茶を「とっておき」だと言った意味が分かる。
千冬は何も訊かないけれど、六の心を察して、最大限の励ましをしてくれたのだろう。
まだ、光輝に棄てられた現実は痛みでしかない。それでも、何十年と経てば、この苦い経験が六の人間性を深めてくれるのかもしれなかった。
「……オレも、熟成できるといいな」
「できるよ。熟成していく六の隣にいるのが、僕だったら嬉しいかな」
「……」
乗り出すようにカウンターへ肘をついた千冬は、いたずらっぽい顔で六を見た。
よくもこんな甘い台詞を、恥ずかしげもなく言えたものだ。
言われたこっちが恥ずかしくなってしまい、六は照れて赤くなった顔を見られないよう、俯いた。
「こんばんはー! 日置酒店です!」
突如、元気な声が静寂を破った。
声の方へ目を向けてみると、大学生くらいの好青年が重そうな酒瓶のケースを持って玄関口に立っていた。
「お客さんですか? 初めまして、日置と申します! ここに千冬さんと研ちゃん以外の人がいるところ、初めて見たかも」
日置青年は白い歯を見せてニカッと笑った。すこし鋭い顔つきなのだが、笑った顔が犬のようでかわいらしく、犬好きの六は一目で気に入ってしまった。
「紫乃くん、いらっしゃい。何か頼んでたっけ?」
「ううん、頼んでないけど、じいちゃんが千冬さんに試飲して欲しいって言ってたから、持ってきた。……おれ、お邪魔したかな?」
紫乃は千冬と六の顔を交互に見て、叱られた犬のような顔をした。
その表情があまりにも六にはないはずの母性本能をくすぐるので、思わず話しかけてしまった。
「ちっともお邪魔じゃないよ。一緒におやつたべる?」
「そうしなよ。おいしいお茶があるから、紫乃くんも座って」
「じいちゃん待ってるから、じゃあ、少しだけ……」
遠慮がちに椅子を引き、紫乃は六の隣に腰かけた。
するとさっきまで不安げな表情をしていた紫乃が、興味を隠せない様子で六に質問をした。
「お兄さんは、千冬さんの恋人ですか?」
「……ははっ! 違うよ、ただの同居人」
六は紫乃の単刀直入な質問に笑ってしまった。
これを訊くのだから、紫乃は千冬の恋愛対象がベータ男性だと知っているのだろう。
「恋人じゃないのに一緒に暮らしてるんですか!? 大人だなあ……」
「僕は恋人にしてもらいたいんだけどね」
「……千冬さん!」
余計なことは言わんでよろしい。六は千冬を睨みつけた。
睨まれたところでちっとも堪えていなさそうな千冬は、何食わぬ顔でお茶を淹れ、焼き菓子を添えて紫乃へ出した。
「あっ、これ『アンコール』のフィナンシェだ!」
「好きだった? なら買ってきてよかった」
「うん、大好きなんです。ありがとうございます、えーと……お兄さん、お名前は」
「六だよ。漢数字の六と書いてりく」
「六さん。おれは、日置紫乃です。紫乃って呼んでくださいね」
ころころ変わる表情が微笑ましくて、ずっと観察していたい気持ちになっていたのだが、紫乃はフィナンシェを食べてお茶を飲むと、すぐ席を立ってしまった。
「千冬さん、六さん、ごちそうさま。じいちゃんが待ってるから帰るよ。六さん、またね!」
一息で言い切った紫乃は、手を振りながら慌ただしく帰っていった。
「紫乃くん、かわいいなあ。大学生くらい?」
「かわいいでしょう。同級生の息子で、今大学三年生」
「大学三年生か。一番楽しい時だよな」
六の大学時代の思い出は翔と瑞希、そして光輝と過ごした思い出ばかりだ。
でも、六と光輝の関係が壊れてしまった今、もう四人で集まることはないだろう。そればかりはすこし寂しい気がした。
「――また光輝くんのこと考えてるんでしょう」
鋭い。見事に言い当てられ、六はばつが悪そうに千冬から視線を外した。
真面目な六にとって、千冬の気持ちを知りながら光輝のことを考えるのは、とても不誠実な気がするのだ。
「好きなだけ考えていいよ」
「え……」
まさか、そう言われると思っていなかったので、六は訝しげな顔で千冬を見つめた。
「――僕は六のすべてを受け止める覚悟でいるから、ね」
優しく六の頭を撫でた千冬の笑顔は、苦味を孕んでいた。
(早く、君の痛みが熟成すればいいのに――)
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