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12 忘れたい
火曜日の晩。六は約束通り、翔といつもの居酒屋うわばみに来ていた。
先日店を貸し切り状態にしてしまったお詫びに、大将贔屓の酒蔵の日本酒を買ってきたら、「気にしなくていいのによ」と言いながらも、しっかり受け取ってくれた。
大将への挨拶もそこそこに、ふたりは乾杯し、きめ細かい泡が立ったジョッキ入りの生ビールを飲み干した。仕事で疲れた身体にアルコールが染みわたる。
翔は先付けで出されたツナとキムチの冷奴を食べ、もうひと口ビールを飲んでから、意を決したように切り出した。
「あのさ……。俺、光輝くんに会ってきた」
「へえ。あいつ何か言ってた?」
碌なことを言われなかったのだろう。翔の表情で想像はついた。
「りっくんがどこにいるのかって、訊かれたよ」
「今度訊かれたらテメーが追い出したんだろ、って言っとけ」
「言ったよ! そしたら『六の住む場所は俺が決める』とか恐ろしいこと言い出して……」
「は……!?」
身の毛がよだつとは、こういうことを言うのだろう。
光輝が何を考えているのか、まるでわからなかった。六の知る光輝は、自分で追い出しておいて六の行動に干渉しようとする矛盾に、気付かないような人間ではなかったはずだ。
(もしかして、光輝にまだ、オレへの気持ちが残ってるのか……?)
たとえそうだとしても、六は絶対に光輝を赦さない。今更光輝に「好き」とか「愛してる」と言われたところで、六の心は動かないだろう。
運命の番を「見つけた」と言っていたから、まだ接触していない可能性もあるが、それでも裏切りには違いないのだ。
アルファやオメガなら、本能に囚われた光輝に同情できたかもしれない。でも六はベータだ。
ベータにはアルファとオメガの契約関係は理解できない。
「それにね、今の光輝くんちょっとおかしいんだよ。まるで本能のまま生きてる虫みたいで……」
「あのプライドの高い光輝が、虫!? ふ、ふふっ……あは、ははは!」
さっきまでのシリアスな空気はどこへやら。六は翔の容赦ない表現に涙が出るほど笑い、また光輝の話で爆笑できる自分に、すこし安堵していた。
――これなら悲しみに唆されなくて済みそうだ、と。
「で、りっくんは今どこにいるの? もし住処に困ってるなら、うちへ来てもいいよ? 瑞希もりっくんなら良いって」
「あー……。実は――」
六は千冬と出逢い、同居に至ったいきさつを簡単に説明した。
「……りっくん、ビッチになっちゃったの?」
「誰がビッチだ!」
聞き捨てならない、と六は息巻いた。
「だって、そうじゃん! まだ一応既婚者なのに、寂しいから違う男と暮らしてるんでしょ!?」
「そういう言い方をするんじゃねえ! 千冬さんは、オレが良いって言うまで手を出さないって言ってるし!」
「何それ!? 年上の男を手玉に取って、悪女気取りですか!」
ヒートアップしていく六と翔に、大将が「まあまあまあ」と声を掛け、ふたりの間にあつあつの唐揚げが乗った皿を置いた。生姜とにんにくをたっぷり使った大将特製のカリカリの唐揚げはこの店の名物で、六と翔の大好物なのだ。
「……うまい」
「あつっ。……おいしい。りっくん、ちょっとその『千冬さん』とやらに会わせてくれない? 俺、今週の土曜日珍しく休みだし、瑞希とふたりで見に行くから」
「……わかった。千冬さんに話は通しておく」
そうして不本意ながらも「悪女気取り」の汚名を払拭するため、六は居候の身でありながら家に他人を招くという、厚かましい行いをする羽目になってしまったのだった。
***
「――ってなわけで、いきなりで申し訳ないんだけど、土曜日にオレの友達夫婦呼んでもいいかな?」
この通り。六は額の前で手を合わせた。
正直、断られても仕方ないとは思っている。いくら温厚な千冬でも、初対面の人間からオーディションにかけられるような真似をされるのは気分が悪いだろう。
「六の友達が僕を品定めしたいって? いいよ。むしろ光栄だな」
「ほんとうに? 無理してるんだったら断るから言って」
あっさり是の返事をもらい、六は内心焦っていた。
だってこれでは、まだ出逢って五日しか経っていないというのに、千冬が六の恋人候補のようではないか。
――この五日間は、間違いなく人生の中で最も濃い五日間になるだろう。
光輝に棄てられた日に千冬と出逢い、同居を始め、そして千冬に告白された。
そう、千冬は六が好きなのだ。
(オレは千冬さんの気持ちを知ってる。逢って数日しか経っていないけれど、千冬さんの言葉が嘘じゃないこともわかってるんだ……)
たった五日間で、六は何度も千冬に救われていた。
出逢っていなければ、最悪悲しみに唆されて命を絶っていたかもしれない。
だから六は、千冬にかなりの恩を感じていた。勿論、意外と押しが強く、外堀を埋めて了承を取るところに困ってはいるが、それを差し引いたとしても、六は千冬へ一ミリも悪い感情を抱いていなかった。
「……千冬さん」
「ん? 他に心配なことがあるの?」
優しく微笑む千冬を見据え、六は下唇を噛み、ばくばくと鳴る心臓に静かにしろ、と念じた。
「――オレ、千冬さんを好きになりたい」
「いきなり、どうしたの。……参ったな、六がそんなことを言うなんて予想してなかった」
六が初めて千冬を動揺させた瞬間だった。
常に飄々として捉えどころのない千冬が、困ったように首の後ろを掻いた。
「……宙ぶらりんで居心地の良い関係に胡坐をかくのは、千冬さんに失礼だと思ったから」
「でも、君はまだ光輝くんが好きでしょう。無理しなくていいんだよ。僕が勝手に好きになっただけなんだから」
無理をしていないか。ついさっき、六も千冬に同じことを訊いた。
お互いが相手の気持ちばかり優先して、自分のことは後回し。いつも六を困惑させるような甘い言葉を吐く癖に、歩み寄れば引こうとする千冬が、どうもおかしかった。
「もう、光輝のことは忘れたい」
「――六。君が光輝くんのことを忘れたとしても、過去を帳消しにすることはできないよ」
言われなくても分かっている。けれど、六は光輝を忘れてしまいたかった。
そうでなければ、光輝に焦がれるだけで、六の一生は終わってしまう。若さだけで生きている年齢ではなくなったが、それでも六はまだ二十八歳だ。
平均寿命まで生きると仮定したら、人生はあと六十年ほど続く。長く短い時間の中で、愛し愛されない生き方を選択するなんて、六にはできなかった。
六は愛する喜びを知っている。不本意だが、それは他ならぬ光輝に教えてもらったことだ。
でも、光輝は六を棄てた。あの日から光輝への愛は砕けてばらばらになり、二度と修復できなくなってしまった。
浮気や不倫を赦せる人もいるだろう。だが、六にはどうしても裏切り行為を赦せない理由があった。
――だから、光輝とやり直す未来など有り得ない。
「ほんとうに、いいの」
「……うん」
「じゃあ、約束を少し変えるね。六が、僕を『好きになってくれるまで』手を出さない」
千冬は六の身体が欲しいのではない。六の心の柔らかな部分に触れ、溶かすほど熱く愛したいのだ。
だから自暴自棄な六に付け込んでしまえ、とは思わなかった。
「わかった。……オレ、光輝に電話してくる」
これは六なりのけじめだ。
千冬が用意してくれた自室に戻って連絡先から光輝の番号を選ぶと、六は画面に浮かび上がる無機質な文字列をプッシュした。
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