13 けじめ

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13 けじめ

 コールを鳴らす。一回、二回……六回目で光輝(みつき)が電話に出た。 『……(りく)?』 「――そうだ。元気か?」  そんなことを訊きたいわけではなかったが、冷静さを保つために当たり障りのない話から始めた。 『元気、ではない……』 「珍しく気弱じゃねえか。運命の番とは、よろしくやってんの?」  このくらいの嫌味を言っても許されるだろう。  わざと煽ってみたのだが、光輝は言い訳もせず黙りこんだ。  ――運命の番を言い訳にオレを棄てたくせに。  一気に怒りが沸点に達した六は、冷静に話そうとしていたことも忘れ、「お前は最低だ、二度と顔も見たくない」と激しい叱責をぶつけた。  いつもの光輝ならば、早い段階で我慢できずに怒り出していただろう。なのに今夜ばかりは一度も反論せず、ただ静かに相槌を打った。  別れを覚悟したときに限って、聞き分けが良くなる光輝はずるい男だと思う。  ただ、聞き分けが良くなったところで、一度冷めてしまった六の愛が熱を取り戻すことはない。それだけは確かだった。    気の済むまで罵倒し溜飲が下がった六が落ち着こうと深く呼吸し、会話が止まったその時。今まで黙っていた光輝から、大きく息を吸う音がした。 『六、俺が悪かった。帰ってきてくれ。……愛してるんだ』  心臓が止まりそうだった。  愛の言葉に心が打ち震える。だがその震えは、喜びではなく純粋な怒りによるものだった。 「よくも、そんなことを……! お前の『出て行け』が、たとえ本能に言わされたものだとしても、一度口から出た言葉は覆らない!」  光輝は六の心を壊しただけでなく、プライドさえも傷つけた。  バース性に囚われて生きるなんて、真っ平御免だ。なのに、あの日からずっと六の頭には「自分がオメガに生まれていたら」「光輝がベータだったなら」とありもしない妄想が渦巻いていた。  六はベータの六であって他の何者でもない。それは光輝だって同じこと。  ベータとアルファは番えないと解ったうえで、プロポーズしたのではないのか。 『ごめん、六。……ごめん、愛してる』 「――ッ!」  壊れた機械のように「ごめん」と「愛してる」を繰り返す光輝に、感情が揺さぶられる。  だが言われれば言われるほど、六の心は光輝から離れていった。 (愛してる? なら、いっそ棄てる前に殺してくれれば、オレは一生お前を愛していたのに……)  六と光輝の間には、埋められない深い溝がある。スマートフォン越しの光輝の声はまるで知らない人のようで、ふたりの隔たりを意識せずにはいられなかった。  光輝は六を「愛している」と言った。でも、運命の番を選んだのだ。  それはどれだけ謝罪しようが、愛を紡ごうが、変わらない事実であり、忘れはしないだろう。  落花枝(らっかえだ)(のぼ)(がた)破鏡再(はきょうふたた)び照らさず。花のように散った六の愛が光輝に戻ることはなく、ばらばらに割れた六の心が再び光輝を映すことはないのだ。 「光輝。……オレも、お前を愛してた」 『六……』  そう、()()()()。 「でもな、光輝。人間って胸を貫くような痛みを抱え続けられるほど、強くできちゃいないんだよ――」  だから、と六は続ける。 「もう、オレたちの関係は終わった。離婚届けは郵送するから、記入して提出しておいてくれ」 『六! 待ってくれ、お願いだ、切らないでくれ……!』 「――光輝、今までありがとう。運命の番は手放すなよ。……じゃあな」  六を呼び続ける光輝の声を無視し、終話ボタンをタップした。 「馬鹿野郎……。今ごろ、愛してるって言ったって、遅いんだよ……!」  涙など枯れ果てたと思っていたのに、瞳から透明な雫が溢れていた。  暑い夏の日にした初めてのキス。抱き締められた腕のぬくもり。子供っぽい性格。どこか切なげな笑顔。すべて、愛していた。  このまま胸に穴が開いてしまうんじゃないかと思うくらいの喪失感に、六は歯を食いしばる。  だけど、これでほんとうに終わりだ。他の誰でもなく、六自身が終わらせたのだから。  ――通話を切った後、何度も光輝から着信があったが、決して出ることはなかった。  涙を拭い、千冬(ちふゆ)の待つリビングへ戻る。呼吸を整えてからドアを開ければ、温かい蒸気が六を出迎えた。 「お帰り、六」  ここでも千冬は何も訊かなかった。  座って、とカウンターキッチンで飲み物を淹れる千冬に促されたので、六はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。 (千冬さんがいてくれて良かった……)  この苦しみをひとりで抱え込まなくていい。それだけで救われたような気がする。  六は手で顔を覆い、じっと俯いて疼痛(とうつう)に耐えた。   「はい、どうぞ。ミントのキャンブリックティーだよ」 「キャンブリックティー?」  耳慣れない単語に顔を上げる。  耐熱ガラスが二重になった丸みのあるカップに注がれたお茶は、ただのミルクティーにしか見えなかった。 「飲んでみて」 「あまい……。これは、蜂蜜? でも、すっとする」 「正解。蜂蜜を入れたミルクティーをキャンブリックティーって言うんだよ。紅茶に蜂蜜を入れただけじゃ黒くなるけど、そこにミルクを足せば亜麻(キャンブリック)色になる。ミントは単純に気分転換になるかなって」  千冬はいつも六の気持ちに寄り添った飲み物を淹れてくれる。そんな千冬が、涙で濡れた六の瞳に気付かないわけがなかった。  六より十五年も長く生きていれば、他者の痛みを肩代わりできないと知っている。人に話さなければ昇華されない痛みもあれば、ひとりでじっと癒えるのを待たなければならない痛みもある。  だから何も訊かないのだ。それが、千冬にできる最大限の思いやりだった。  六はその優しさを嬉しく感じるとともに、なぜだろう、すこしだけ切なく思った。 (次に人を好きになるのなら、この人がいい――)  わがままだけれど、すこしだけ時間を下さい。  気持ちが落ち着いた六は、ミントと蜂蜜の香りが絡み合った亜麻色のミルクティーを、ゆっくり大切に飲んだ。
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