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15 信じて
時が過ぎるのは早いもので、六が千冬と出逢ってから、二週間が過ぎた。
今日は十一月二十四日の金曜日。杣商会は二十五日が給料日なので、今回は一日前倒しで支給された。
いつも通りの定時に仕事を終えた六は、以前フィナンシェを購入した『アンコール』で生ケーキを四つ買い、千冬のオフィスへ向かっていた。
先週の土曜日に本郷夫妻が帰ったあと、六はようやく千冬の仕事を知った。
ベータ女性の間で話題になっている『のみもの屋』という通販サイトがあり、その運営会社が千冬の経営するtrinkenなのだそうだ。
名の通り、お茶や珈琲、酒類やジュースなど、飲み物に特化したものらしい。トリンケンはドイツ語で「飲む」という意味なので、「何のひねりも無いんだけど」と自虐めいたことを言って、千冬は笑っていた。
アルファの経営者ながら富裕層向けではなく、一般層のベータやオメガ向けのサイトを運営していることが新鮮、と話題になり『白亜のパイオニア』の制作会社から取材依頼が来たのだった。
確かに千冬のようなアルファは珍しい。
育った環境にもよるだろうが、基本的にアルファは選民思想が強い傾向にある。だが、千冬にはアルファであることを振りかざすようなところが欠片もないのだ。
その点は六が日々感じていることで、千冬の一番好きな部分だった。
(一緒にいるとほっとするし、安心する。……でも、オレはもう一度アルファと恋愛するのが怖い。千冬さんにまで棄てられたら、次こそは首をくくるかもしれない――)
千冬がいくら温厚誠実だからといって、「運命の番」の問題が解消されたわけではない。
光輝の整合性のない発言から推測するに、「運命の番」とは感情を超えた生殖システムなのだろう。本能に支配されることのないベータにはまず理解できない感覚だし、当人のアルファやオメガにしたって、理不尽で抗えないものに違いなかった。
千冬はベータを差別しない。
なのに六は千冬がアルファだという理由で、一歩踏み出す勇気を持てずにいる。それが胸につかえて気持ち悪く、考えるたび、六は自分を責めたくなるのだった。
***
二度目の訪問となるトリンケン。六はガラス扉から漏れ出した灯りを確認してから、「こんばんは」と中へ入った。
室内を見渡しても千冬はおらず、千冬と同じ歳くらいのこざっぱりした男性がカウンター席に座っているだけだった。男性は六の姿を認めると、人好きそうな笑顔で話し掛けてきた。
「おっ、いらっしゃい。君が『六』くん?」
「はい。初めまして、六です。……もしかして、千冬さんと共同経営されてる間宮さんですか?」
「そう、間宮研です! 気軽に研って呼んでな! ちょっと千冬が日置のおじさんに呼ばれちゃったもんで、俺が留守番してたってわけ。それに千冬から毎日六がああしたこうした、って話を聴かされるから一度会ってみたかったんだよね」
一体どんな話をしたというのだろう。気になった六は、つい半笑いになってしまった。
「あ、俺が知ってるのは千冬と暮らしてることくらいで、君のプライベートは知らないよ? あいつ、口堅いから」
だから安心しな。研は椅子を引き、六を隣へ座らせた。
「――で、さ。人の恋愛事に首を突っ込む趣味はないんだけど、ひとつだけ訊いていい?」
「……はい」
優しい口調で切り出されたが、六は揺れる心を見透かされたようでどきっとした。
「君は、千冬のことが好き?」
「好きになりたい、です」
それが偽りない気持ちだった。
六の中に光輝への愛は残っていない。かといって、すぐに切り替えられなかった。
千冬が六以外の恋人を作るのは嫌だ。自分勝手な自覚はあるが、そう思うくらいには千冬に気持ちが向いている。
「そっか……。ならいいや。あいつ、いい奴だから絶対に六くんも好きになるよ」
何が嬉しいのか、研はやけに楽しそうだった。
「急にごめんな」
「構いません」
無理もない、と笑った。
それから六はとりとめのない話をしたのだが、研の纏う人懐っこい雰囲気に流され、つい口を滑らせた。
「……オレ、この間アルファのパートナーに運命の番が現れて棄てられたんですよ。だから、千冬さんは悪くないけどアルファと恋愛するのが怖くて……」
「それは、気の毒な……。ベータからすると、番契約って意味わかんないもんなあ。……あのさ、六くん」
研は痛ましい顔をして、もっともな意見を述べた。
「六くん、って言い辛くないですか? 六でいいですよ」
「じゃあ、六。詳しいことは言えないんだけど、千冬は大丈夫。だから、信じてあげてくれないかな」
「……ヒート酔いするから、ですか?」
「それもある。でも、それだけじゃない。いずれ本人が話すと思うし、それまで待ってやってくれる?」
六は研と千冬の関係性を知らないが、どうもふたりの間には、他人が入り込めない強い絆があるように思えた。
(千冬さんの恋愛対象がベータなのって、もしかして、研さんが好きだったから……?)
そんな考えがよぎり、胸に鈍い痛みが走った。
千冬の想いに応えられもしないのに勝手に傷つくな。六はそう必死で自分に言い聞かせた。
「千冬はアルファの中で一番信頼できる男だって、ここに断言しておく。まあこれは、親友の欲目かもしれないけどね。お、噂をすれば――」
室外からふたり分の声が聴こえる。どうも千冬が紫乃を連れて帰ってきたようだ。
「――ただいま。外は冷えるね」
「こんばんはー。あっ、六さんだ! この間はありがとうございました!」
寒かったと笑う千冬と明るく元気な紫乃を見て、六が感じた胸の痛みは、不思議なほどすっと引いていった。
ひとりで考えても答えは出ないんだから、あとで千冬に訊けばいい。きっと、誤魔化さずに教えてくれるから。
六は買ってきた華やかなケーキを配りながら、そんなことを考えた。
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