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16 悪酔い
本格的に風が冷たくなってきた十二月一日の金曜日。今日は杣商会の忘年会で、六は朝から憂鬱だった。
というのもここ数日、御影のアプローチが露骨になっているからだ。
明らかに光輝の匂いがしなくなった六を、御影は鵜の目鷹の目で狙っている。先日など通りすがりざまに臀部を鷲掴みにされたのだ。女子社員ならセクハラで一発レッドカードだろうが、相手を選んでいるあたり姑息な男である。関われば関わるほど、六の御影への好感度は下がる一方だった。
そのことを千冬に愚痴ったら、にこにこしながらも目が笑っていないという、大層恐ろしい顔をされた。笑い話のつもりだったのだが、千冬はそう受け取らなかったらしい。
以来、六は千冬から「絶対ひとりになっちゃダメ」と、毎日釘を刺されていた。
二十八歳のベータ男性に言うことかと思いつつ、本音ではそんな小さな嫉妬が心地よくもあった。
(やっぱり研さんのこと、ちゃんと訊いといてよかったよなあ……)
***
トリンケンからの帰宅後、六は千冬に「研が好きだったのか」と直球の質問を投げた。
それを言われた時の千冬の表情といったら、鳩が豆鉄砲を食ったような、あっけに取られたものだった。その後、我に返った千冬はどうも笑いのツボにはまったらしく、「脇腹が痛い」と訴えるほど大笑いした。
「――ごめんごめん。まさか、そんな勘違いをされるとは思ってなくて。研は親友だから恋愛感情を持ったことなんて、一度もないよ。六と翔くんの関係と同じ」
「そっか……。オレも変なこと訊いて、ごめん」
六は胸をほっと撫で下ろした。研と比べられたら人格的に敵いそうにない、と気にしていたのだ。
「いいんだ、むしろ嬉しい。だって僕に興味を持ってくれているんでしょう?」
喜色満面な千冬に面映ゆくなってしまう。以前、真正面から「愛を贈り続ける」と宣言されたが、実際、千冬は臆することなく気持ちを伝えてきた。甘やかな雰囲気がくすぐったくてつい流してしまうけれど、千冬に愛を語られる度、六の心に熱が灯る。
愛を失い傷ついた六の心は、千冬の言葉によって穏やかに癒されているのだった。
***
「みなさん、飲み物は行き渡りましたかー!?」
杣商会から歩いて五分にある会席料理店で、忘年会が始まった。大部屋の座敷席に本社勤務の六十人が集まっており、わいわい、がやがやと賑やかな空気だ。
「乾杯!」
幹事の合図で六はビールを飲み干した。光輝のことを訊かれてもヘラヘラできるよう、さっさと酔っぱらってしまう算段だった。
ただ、ひとつだけ注意しなければならないことがある。
どうも六は複数種の酒を飲む、所謂「ちゃんぽん」をしたとき、誰構わずキスをするキス魔になっているらしいのだ。
らしい、というのは六が全く覚えていないから。飲み会で何度かやらかしているのだが、いかんせん記憶がないので改善のしようがなかった。
だから六は飲まされすぎないように先手を打って、瓶ビールを片手に巡回し始めた。
上司に酒を注いで回っていると、今年入ったばかりの女子新入社員がグラスを見つめて俯いているのが目に入った。
「どうしたの。気分悪い?」
「あっ、藤原さん。あの、お酒が飲めないのでウーロン茶を頼んだんですが、間違ってウーロンハイが来てしまって……」
交換して貰えば済むようなことだが、まだ社会に慣れていない彼女にとっては一大事だったらしい。
「オレが飲むから、貸して」
場の空気を壊すのではと気を揉んでいた初々しい彼女をつい助けてあげたくなって、六はグラスを受け取ると、またしても一気に飲み干した。
まだ何も食べていないのですきっ腹にアルコールが充満していったが、このくらいなら大丈夫だろう。
――そう思ったのも束の間。
飲んでいるところを営業部の酒豪連中に見つかり、六はあれやこれやといろんな酒を飲まされる羽目になったのだった。
「向井~。お前、こないだの工事でちゃんと指示出来たらしいな。えらいぞ、チューしてやる!」
「ふ、藤原さん!?」
今しがた傍にやってきた六がそんなことを言ったので、向井は驚きのあまり声が高くなった。いつもの六は人当たりこそ良いものの、質の悪い冗談を言ったりしない常識人という印象だったからだ。
「お、藤原のアレが始まった!」
「よし行け!」
悪ノリが大好きな営業部の野次をBGMに、六はふわふわした気分で向井の頭を掴んだ。
そして顔を真っ赤にして視線を泳がせる向井に微笑みかけ、その通った鼻筋に口付けた。
草食男子と言うのだろうか。見るからに初心な向井は、突然のキスにキャパシティオーバーしたらしく、真っ赤になった顔を押さえ、そのまま床に突っ伏してしまった。
「向井が藤原の洗礼を受けたか……! よしよし、これでお前も男だ!」
「六ちゃん、私も私も」
「いいですよ。はい、チュー」
先輩の女性社員が自分の頬を指したので、躊躇うことなくキスをする六。完全に理性がぶっ飛んでいた。
実は六のあずかり知らぬところで、女性社員から「六ちゃん」と呼ばれ、社内のローカルアイドルとして親しまれている。でも酔っぱらった六は、いつもと違う呼び方をされても全く気付いていなかった。
こうなってしまった六は、キス製造機といっても過言ではない。酒を飲ませた酒豪連中は、完全に出来上がった六を見て大いに盛り上がっていた。
「俺にもキスして?」
騒ぎを嗅ぎつけ、御影がやってきた。
いつもの六なら判を押したような笑顔で対応するところだが、酒に酔っているので取り繕うことができず、苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「御影さんは好きじゃないから嫌だ」
「御影、嫌われてんなー!」
「そんなこと言わないでキスしてやれよー!」
外野がやんややんやと囃し立てている。
完全拒否されプライドに障ったようで、御影は片眉をぴくりと動かし、六を見下ろせる位置へ移動した。
影が掛かって暗い。そう思った時には、御影からキスされていた。
「んぁっ、ン……! やめッ……!」
「かーわいいなあ、藤原。俺はお前がこんなに好きなのに、ひどいこと言わないでよ」
「御影、何やってんだよ!」
「かわいそうだろー! 藤原はお前のこと嫌いなのに!」
周りは御影のおふざけだと思っているが、六からしたら堪ったものではなかった。それに死角なのをいいことに、御影の舌が侵入してきたのだ。
(気持ち悪ぃ……!)
酔いが回っているとはいえ、やられっ放しではいられない。
二度とこんなことさせるか。
これまでの恨みと怒りを込め、六は我が物顔で口内を動き回る御影の舌を、思いっきり噛んだ。
「ッ……! やってくれるじゃん……」
御影の目は欲に濡れ、瞳孔が開いていた。
アルファは性的な興奮を覚えた時、反射的に瞳孔が開くのだ。だから不覚にもたじろいでしまった。
手加減なく噛んだので、御影の舌には血が滲んでいた。親の仇を見るような目で御影を睨んでみたが、御影はそんな六を一瞥し、傷を見せつけるように舌なめずりした。
「――宴もたけなわですが、お開きの時間となってしまいました!」
幹事の挨拶で場は水を打ったように静かになったので、御影をもうひと睨みしてから、総務の席へ戻った。
忘年会は通例に従い社長の一言で締められ、拍手ののち、お開きとなった。
流れに任せて店外へ出れば、二次会へ行く人間と帰る人間が別方向に歩き出している。
飲みすぎてしまったこともあり、六は帰るつもりで二次会組と逆方向へ足を踏み出した。
――しかし、数メートル進んだところで御影に腕を引っ張られ、あっという間に路地裏へ連れ込まれてしまったのだ。
「俺の身体に傷をつけた代償は、きちんと払ってもらうよ」
無許可でキスをしておいて、随分勝手な言い草だった。
「御影さんが悪いんじゃないですか?」
ビルの外壁に身体を押し付けられ、身動きが取れない。六は百七十七センチとベータの男性にしては身長が高いが、それよりも五センチは背が高く、ベータよりも大きな骨格を持つアルファの御影が本気で力を出せば、生身で勝てるわけがなかった。
「ねえ、どうして最近旦那の匂いがしないの? もしかして棄てられた、とか?」
「……だったら、どうだって言うんですか。あなたには関係ない」
一週間前の六なら、揶揄するような御影の言葉に傷つけられただろう。
だが、もう痛みは過去のもの。六は既に前を向き始めている。だから苛立ちこそ覚えたものの、悲しみに絡めとられたりはしなかった。
「ふうん、いいね。お前みたいに生意気な奴の方が、屈服させ甲斐がある」
下卑た台詞を吐いた後、御影は六の首筋に顔を埋め、唇を強く押し当てた。
「やめてください! 大声を出しますよ!」
激しく抵抗したが、酒の入った身体では全力が出なかった。
「――出せば? アルファとベータの言い分、どっちを信じるかな」
やり手の営業である御影にとって、口八丁手八丁で他人を丸め込むなど造作もない。
抵抗も空しく、首筋を啄みながらネクタイを緩められ、ワイシャツのボタンが外されていった。シャツの隙間から侵入した御影の長い指が六の乳頭に触れ、このまま好きにされてしまうのか、と絶望しかけた時――。
「――ねえ、六から離れてくれる?」
高級そうなスーツに身を包み、髪を整えた千冬が、路地裏の入り口に立っていた。
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