18 意識

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18 意識

 (りく)は複数種の酒を飲む、所謂「ちゃんぽん」をしたとき、誰構わずキスをするキス魔になっているらしい。らしい、というのは六が全く覚えていないから。  ――そう、「覚えていない」はずだった。  でも今回に限っては、御影(みかげ)に路地裏へ連れ込まれた後の記憶が、全て残っていた。  御影の急所を膝で蹴り上げてから千冬(ちふゆ)に散々迷惑をかけた挙句、いたずら心でキスをしてやり返され、果ては六からねだるように舌を絡ませたことだって、全部覚えていた。  穴があったら入りたい。可能ならば穴を掘り続けて、地球の裏側まで行ってしまいたかった。 (ああ、ああああああ……! オレ、あんな感じになるんだな!? マジで、今後は絶対にちゃんぽんしない……!)  甘えた声を出す、そこそこ背が高い二十八歳ベータの男。「地獄絵図」以外の感想が出てこなかった。   精神的なダメージが酷くて、このまま二度寝してしまいたくなったが、きっと千冬が朝食を用意して待っている。だから六は、気合を入れてベッドから起き上がった。  インディゴデニム。アイボリー地のノルディック柄ニット。お気に入りの服を着て、覚悟を決めた六は、千冬の待つリビングへ足を向けた。 「おはよう」  早くから千冬が起きていたのだろう、リビングの床暖房は温まりきっていた。 「おはよう、六。よく眠れた?」  千冬はいつもと変わらない笑顔だったが、六の方が気まずくなって、つい目を反らしてしまった。 「……昨晩は、重ね重ねご迷惑を――」  顔を見て言え。  頭の中でもうひとりの六が言ったが、どうしても昨晩の艶めかしいキスを思い出してしまい、謝罪するだけでいっぱいいっぱいだった。 「迷惑? ……もしかして、覚えてるの?」 「……うん」  (かける)瑞希(みずき)から「キス魔になった六は記憶を失くす」とでも聞いていたのだろう、千冬は窺うように訊ねた。   六はまだ千冬と目を合わせられなかったが、誤魔化しても仕方ない、と正直に答えた。  心臓の音が五月蠅くて、落ち着かない。どうにか平静を装いたくて、六は深呼吸し、目を閉じた。  そして吸って、吐いて、を繰り返しようやく鼓動が鎮まったので目を開けると――千冬が目の前に立っていた。  驚いて後退した六だが、お構いなしに距離を詰められ、すぐに壁際へ追いやられてしまった。  もう逃げられない。六は窮鼠のような気持ちで、上目遣いに千冬を見た。 「――なら、僕とキスしたことも覚えてるんだね?」 「覚え、てる……」  千冬が六を囲うように腕をついた。逃げ場をなくした六の顔を覗き込むと、耳まで真っ赤に染まっていた。  昨夜のキスのせいで、六は千冬を意識せずにはいられない。いつになく反応の良い六に、千冬は満足げな表情で目を細めた。 「もう一回、キスしてもいい?」 「な、何で!」 「六が僕を意識してくれているから。……ねえ、六。しても、いい?」 「……」  六は嫌ならノーと言える人間だ。だから沈黙は肯定と判断し、千冬は少し身をかがめて、六へ唇を落とした。  ――そう、六のこめかみに。  それだけで六の顔は、さっきよりもっと赤くなった。昨日あんなキスをしておいて、これで終わりなわけがないだろう、と。 「……そんな『食べてください』って顔をしていたら、ほんとうに食べられちゃうんだからね、かわいい仔ヤギちゃん」  千冬はぎゅっと瞼を閉じた生娘のような姿にくつくつ笑い、解放してから意識してガチガチに固まった六の頭をさらりと撫でた。 「朝ご飯にしようか」  今日の朝食は大和芋のとろろと麦ご飯。それから海苔と麩の吸い物。  二日酔いであまり食欲が湧かない六だったが、これならするっと食べられそうだ。  「いただきます」  吸い物を口に含むと、椀に塗られた柚子の香りが鼻を抜けていった。 「おいしい……。千冬さん、ありがとう」 「こちらこそ。いつも『おいしい』って食べてくれてありがとう」  千冬はとろろにわさびを混ぜながら、にこっと微笑んだ。 (……やっぱりオレって、千冬さんが好きなんだよなぁ? 穏やかで落ち着いていて、安らぐし)  正直な想いを伝えれば、きっと千冬は喜ぶだろう。だが、口には出せなかった。  いつまで千冬に甘えるつもりなのだろう、自分はこんなに憶病だっただろうか、と六は顔をしかめた。年末まであとひと月しかないのだから、今後の身の振りを決めなければならないのに。  ――だけど、もうすこし。もうすこしだけ、この心地よいぬるま湯に浸かっていたかった。  甘ったれた考えを押し込めるように、六はねばりけの強いとろろをかき込んだ。    ***  冬枯れの街路樹が風でしなる月曜日。六はオフィスコーヒーの用意をしながら、ため息をついていた。  御影にどんな顔をして会えばいいのだろう。忘年会での醜態と愚行を思い出し、憂鬱になっていた。  年功序列の色が濃い(そま)商会にいながらも、三十三歳で営業部の課長に就いている御影は、社内外で優秀と評判だった。嫌われると仕事がやりにくくなるから、これまで丸く収まるように我慢を重ねてきたというのに、酒のせいでこれまでの努力がパアになってしまった。  コーヒーの香りが漂い始める。六はコーヒーサーバーから一滴ずつ落ちる茶褐色の液体を見ながら、鬱々とした心持で断罪の時を待った。 「お、おはようございます」 「おはよう、向井(むかい)」 「おはよう」 「おはようございます!」  杣商会は宴会好きが多いので、飲み会はいつも盛り上がる。だが、休日を挟めばみんな羽目を外したことなど忘れた顔で、いつも通りの振舞いを見せた。  ――飲み会で見た顔を、素面の席で話してはいけない。  それを営業部へ配属された新入社員の六に教えてくれたのは、他でもない御影だった。  御影は人格的に多少問題があるものの、仕事に対しては真面目で誠実だ。取引先の社長がたとえベータやオメガであっても、アルファの社長と同じように接することができる御影は「顧客殺し」と呼ばれ、営業成績を一度も落としたことがない。内心ではベータやオメガを「アルファより格下だ」と思っていたとしても、だ。  だからこそ、御影の気を損ねたら厄介なのだ。人心掌握は御影の得意中の得意。その気になれば、六の評判を下げるなど朝飯前だろう。  先に手を出してきたのはあっちなので気は進まないが、今後の業務に響くと困るので御影が出社次第、先手を打って謝罪するつもりでいた。  時刻は八時四十五分。普段ならとっくに出勤している時間だが、今日に限って御影は現れなかった。  そして八時も五十分になり、六に焦りが出始めた頃、ようやく視界の端に上等なグレーのスーツが見えた。  ――御影だ。六はこそこそと御影のデスクへ近づいた。  すると、なぜだろう。六に気付くなり、御影の顔がみるみるうちに青くなっていったのだ。 「ふ、藤原……。もう何もしないから、許してくれ。俺が悪かった……」  まさか御影に謝られるとは、夢にも思っていなかった。  狐につままれたような気分で六は眉を寄せたが、「社会人としての礼儀」と自分に言い聞かせ、静かに頭を下げた。 「いえ……。こちらこそ課長に失礼なことを。今後もご指導お願いします」 「あ、ああ。……よろしく」  御影はひどく落ち着かない様子だ。  金曜日までの自信過剰な彼は、一体どこへいったのだろうか。  不思議には思ったが得意先への電話はつつがなく対応しているので、考えすぎかもしれない、と、その場を後にした。 (そういや、千冬さんが御影さんに何か言ってたような……。いや、まさかな――)  あの人の良い千冬が、ひどいことなどするわけがない。  するわけがない、ということにしておこう。六は首をぶんぶんと横に振り、湧いた疑念を振り払った。    ***  それから三日経った、木曜日の十八時。  無事定時に仕事を終えた六が、コートを羽織ってからスマートフォンを見ると、(けん)から一件のメッセージが届いていた。 『紫乃(しの)ぼうのお祝いをするから、ぜひ来てちょうだい』  このよく分からないメッセージの受信時刻は十六時ごろだったので、六は内容を確認するため、研へ電話を掛けた。 「お疲れ様です、六です。研さん、紫乃のお祝いって……?」 『おっ、お疲れ様ー。それは……秘密。来てからのお楽しみってことで。じゃ、後でね!』  折角掛けたというのに、研は意味深なことだけ言って、即座に電話を切ってしまった。  自由人な研に苦笑しながらも、六は最近できたかわいい弟分を喜ばせたくて、手土産に何を持っていこうかな、と考えを巡らせた。  確かトリンケンまでの道のりにデリが一件あったから、そこで肉料理を買っていこう。食べ盛りの紫乃には、スイーツよりそっちの方が嬉しいだろう。そう心の中で決定し、六はオフィスを出た。  迷いに迷って六が買ったのは、ガツンと大きなスペアリブと、ハーブ風味のポテト。これなら若者の胃袋も満足させられるに違いない。  喜ぶ紫乃の顔を思い浮かべながら歩いていたせいか、いつもより早くトリンケンへ着いた。  六がドアに手をかけようとした、その時。ちょうど中からドアが開き、紫乃が出て来たのだった。ブルゾンを着ており、鞄も持っているから、もう帰るのかもしれない。 「六にい! もしかして、研ちゃんが呼んだから来てくれたの……?」  紫乃は兄が欲しかったらしく、すっかり仲良くなった今では、六を『六にい』と呼んで慕っている。 「そう。何か知らないけど、おめでとう。もう帰るのか?」 「うん、じいちゃんが咳してたから心配で……。せっかく来てくれたのに、ごめんなさい……」  紫乃は肩から下げたメッセンジャーバッグの紐を両手で掴み、申し訳なさそうに俯いた。  叱られた犬のようにしゅんとした様子がかわいくて、六は紫乃の髪を掻きまわし、気にすんな、と笑った。 「ほら、これ紫乃に買ってきたやつだから、持って帰っておじいさんと一緒に食べな」  買ってきた総菜を紫乃に押し付け、笑いながらもう一度頭を撫でてやれば、紫乃はさっきまでしょんぼりしていた表情をがらりと変え、満面の笑みを見せた。 「……うん、ありがとう! ……あれ? 六にい、こないだよりずっと幸せそうな顔してるね」 「え?」 「まるで、恋でもしてるみたい! ……なーんて。じゃあ、またね!」  紫乃の冗談だったようだが、図星を指された気がして、六の胸がどきりと鳴った。  そんなことも露知らず改めて元気に礼を言った紫乃は、差し入れを両手に帰って行った。 (――嘘だろ? いまのオレって、そんなに分かりやすい? 怖がってないで、千冬さんと向き合わなきゃ、な……)  誤魔化せないところまで、来ているのかもしれない。  六は視界に入った『trinken』の表札の木目を数えて心を落ちつけ、平常心、平常心、と唱えながらドアノブに手を掛けた。
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