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19 関係
「悪い、六! 来てくれたのに、紫乃ぼうが帰っちゃってさ……」
研は申し訳なさそうに頭を下げた。だが、どうも声がにやけている。
カウンターの上には大吟醸と書かれた一升瓶と四つの猪口があって、研の頬がほのピンクに染まっていることから、既にほろ酔いであることが窺えた。
「大丈夫ですよ、さっきそこで会いましたから。……というか、研さんもう飲んでるんですね?」
「紫乃くんが帰る前に『お祝いだからひと口だけ飲んでいけ!』って開けちゃったんだよね。弱いんだから、あんまり飲まないように」
しまりなく眉を下げる研に千冬は呆れ顔だ。
それでも心配はしているのだろう、ペットボトル入りのミネラルウォーターのキャップをゆるめ、研の前に置いた。その行動が熟年夫婦のようで、六もつい笑ってしまった。
「だってさ……紫乃ぼうの初恋なんて、諸手を挙げて祝ってやりたいじゃないか……!」
「あ、紫乃の初恋祝いだったんですね。……二十歳の男にそんなことして、嫌がられませんでした?」
幼いころから知っているとはいえ、いささか過剰ではなかろうか。六が紫乃の立場ならありがた迷惑でしかない、とこの場にいない紫乃に同情した。
「紫乃くんは優しいから何も言わなかったけど、迷惑だったと思うよ」
「千冬は口うるさいなあ。……お前だってほんとは嬉しくて仕方ないくせによー」
千冬から小言と冷たい視線を貰った研は、蠅を払うように手を振った。
(さっき紫乃に「恋でもしてるみたい」って言われたのは、あいつが初恋の真っ最中だからか。……焦って損した)
ただ、その言葉にどきりとさせられたのは事実だ。
どれだけ抑え込もうとも、心が動いてしまうことは誰にも止められない。
「なあ、聞いたか? 紫乃ぼうの初恋の君は『儚げな美人』なんだってよ! 何で初めっからそんな難攻不落なところになぁ……。小学生並みの紫乃ぼうには難しいだろ」
「いいじゃない。結果はどうであれ、良い経験になるよ」
紫乃のことで嬉しそうに笑い合う、千冬と研。前々から思っていたのだが、どうもこのふたりは紫乃に対して「同級生の息子」以上の感情を持っているように見えた。
それこそ、まるで父親のような――。
「……紫乃って、千冬さんの同級生の息子なんだよね?」
ただ、六は紫乃から「じいちゃん」以外の家族の話を聞いたことが無かった。
六の質問を受けて、千冬と研は目で会話し、訳あり気に頷きあった。
「――そうだよ。……前に話したことがあるよね、紫乃くんは『愛を失った悲しみに唆された人』の息子なんだ」
虚を突かれ、六の脳裏に千冬の真剣なまなざしがフラッシュバックした。
「紫乃くんが三歳のころだから、十七年前かな。……早いね」
ねえ、涼平。
千冬はひとつ多い猪口に酒を注ぎ、悲しみを含んだ複雑な笑みを見せた。そして研も同じように微笑んだ後、紫乃の産みの親――涼平について語り始めたのだった。
「涼平は俺達と同じ大学に通ってた男のオメガでさ。オメガだけど飛びぬけて頭が良くて、『オメガの新星』とか言われてた。で、色々あって涼平は憧れの教授にうなじを噛まれて、入籍したんだけど……」
それだけなら巷にあふれるオメガとアルファの恋物語のようだが、六はこの物語がハッピーエンドでないことを知っていた。
「……でも、あの男は『やっぱり女のオメガの方が具合がいい』って、ただそれだけの理由で、涼平を棄てたんだ」
いつも朗らかで快活な研の顔が険しくなり、強く握られた拳が白くなった。一方ライトベージュの琺瑯ケトルを火に掛けた千冬は、切ない表情で悲しい昔話に耳を傾けている。
オメガとベータでは事の深刻さがまるで違うけれど、アルファが恋人や配偶者を棄てた話は、案外その辺に転がっているのだ。
「あとは千冬が六に説明したとおりだよ。『おれが紫乃を置いて死んだりするもんか』って言ってたのに、ヒートの苦しみに耐えられなくなってさ……」
震える手で猪口を口に運んだ研の目尻に、ひと粒、光るものがあった。
「僕たちも、日置のおじさんも、涼平が亡くなった理由を紫乃くんに話さなかったんだけど、ご近所さんが涼平の話をしているところに居合わせたみたいでね……。事実を知った紫乃くんは、それから恋愛自体が怖くなってしまったんだ」
いつも明るく、天真爛漫な紫乃がそんなトラウマを背負っているとは思いもよらなかった。
どうやら人は皆、巧みに悲しみを隠して生きているらしい。六も千冬も研も紫乃も、心に横たわり続ける辛い記憶を持っている。だけど、それをおくびにも出さず、変わらない日常を描いているのだ。
人はいとも容易く悲しみに唆されてしまう生き物だが、悲しみを内包し熟成させることで、前を向くことが出来るのだろう。
「なるほど……。だから『お祝い』ね」
「――愛は恐ろしい一面を持っているけれど、愛し愛されることで得られるものは沢山あるはずだからね」
千冬は何も入っていないガラスポットに湯を注ぎ、湯を捨ててから、丸く加工された茶葉を入れ、ポットに再び湯を注いだ。
「……ああもう! お祝いなんだから、こんな湿っぽい空気は無し! 千冬、もう一杯!」
「ダメ、そろそろ帰りなさい。百合さんとひなたちゃんが待ってるでしょ」
「――ったく、千冬は俺のお母さんかっての! 六、気をつけな! こいつ優しいけど、小姑みたいなとこあるから!」
ぶちぶちと文句を垂れながらも、研は素直にビジネスライクなダウンコートを着込み、六に忠告をしてから帰って行った。
研が帰り、室内には時計の秒針が時を刻む音だけが響く。
ゆるやかな静寂に居心地の良さを感じていた六だが、どうしても聞きたいことがあり、沈黙を破った。
「――あの、さ。千冬さんはもしかして、涼平さんとオレを重ねてた?」
「……そういう部分がひとつもなかったとは言えないけれど、涼平に恋愛感情を抱いたことはない。お願いだから、誤解しないで」
常にマイペースな千冬の声色に焦りの色が灯り、縋るように六を見た。
人間社会の頂点に立つアルファが、中流層のベータに向ける表情じゃない。あまりにも必死な千冬に、六はくすぐったくなってしまう。
自分でも意外だと思うが、涼平と重ねられていたとしても嫌ではなかった。むしろ千冬の大切な人と同じカテゴリに入っているのなら、誇らしくさえあるくらいだ。
「はは、分かってるって。光輝と瑞希ちゃんの関係と一緒だろ」
翔がいなかったとて、ふたりが番になる想像はできない。
そんな想像をしたことがバレただけで瑞希に猛抗議をされそうなくらい、あのふたりの相性は最悪なのだ。
アルファとオメガは番うが、誰でもいい訳じゃない。
だからこそ、光輝は――。
六の心には光輝につけられた傷がいつまでも生々しく残っていた。だけど、光輝のことを考えたくなかった。今の六が向き合うべき相手は光輝ではない。
「――ねえ、千冬さん」
もう、逃げるのはお終い。
腹を括った六は、千冬の切れ長の瞳を見つめた。
「以前、研さんが『千冬は大丈夫だから信じてあげて』って、オレに言ったんだ。その言葉の意味を、教えてくれない……?」
千冬が息を呑んだ。
無理もない。それは暗に、六が千冬を好きになっても安心できる理由を教えろ、ということなのだから。珍しく千冬の瞳が戸惑いに揺れていたが、六は決して目を逸らさなかった。
ガラスポットに浮かんだ丸い茶葉は、まだ開かない。
観念した千冬はカウンターから出ると、六の隣へ腰掛け、静かに昔話を始めた。
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