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2 交わらない想い
「――りっくんさ、いつまで怒ってんの? 俺もう、帰りたいんだけど~」
六は今、行きつけの〈居酒屋うわばみ〉のカウンターで酒を煽り、怒涛の剣幕で怒っていた。
他の客はいない。馴染みの大将がふらふらと暖簾をくぐった六のただならぬ様子を心配し、客が捌けてから、厚意で店を貸し切りにしてくれたのだ。
こんな夜にひとりでなんかいられない。
だから家を飛び出してすぐ、大学時代からの親友――本郷翔を呼び出した。
親友のピンチだと慌てて駆け付けた翔だが、泥酔して管を巻き続ける六に、すでに来たことを後悔していた。
「今日くらい、朝まで飲んでくれたっていいだろ……! 光輝の馬鹿、大馬鹿! あんなやつ、くたばっちまえ!」
「……あのさあ。番持ちのアルファをこんな時間に呼び出しておいて、まだ光輝くんの愚痴を聴かせるつもり?」
六が電話をかけてきたのが二十一時ごろ。その三十分後に合流してから、二時間は大人しく恨み言を聴いてあげた。
だからもう、このくらい言ってもいいだろう。気の長い翔でも、愚痴のごみ箱にされるのは御免こうむりたい。
「うっ……。それは、ごめん……」
「りっくんだから、うちの瑞希も許してくれたんだからね? 一緒にいて欲しいんなら落ち着いて。そりゃ光輝くんが全面的に悪いし、俺はりっくんの味方だよ」
よしよし、かわいそうに。
ゆっくり頭を撫でられ、六の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。落ちた涙はカウンターの木目にゆっくり染み込み、黒い跡を残した。
「……なあ、翔。運命の番って何? オレとの八年間を一瞬で捨てられるくらい、抗えない本能なのか?」
「さあねぇ……。俺と瑞希は運命の番じゃないから分かんない。ただ、俺がもし運命の番に会ったとしても、瑞希を棄てたりしない、かな。瑞希のうなじは俺が噛んだから、死ぬまで責任持たないとね」
翔の意見は一般論だ。しかしいまの六にとっては、胸を鋭く抉るものだった。
「やっぱり、オレがベータだから棄てられたんだ……。光輝だって、オレがオメガだったら、あんな、あんな、簡単に……オレを棄てなかったかもしれない……!」
六は悲痛な叫びを上げた。
これは酷い悪夢ではないのか。そう勘違いしてしまいそうなくらい、辛かった。六が悪いわけでもないのに、まるでぼろ雑巾のように容易く棄てられた現実が――。
六と光輝の出逢いは十年前。ふたりは同じ大学に通う同期生だった。
幼稚園から高校まで付属がある名の知れた私立大学で、アルファのご子息が多い所謂坊ちゃん大学だ。
母子家庭で育った六は、家計を圧迫せずに進学できる道を考え、アルファの生徒が使わない学費免除の特待生枠を狙った。坊ちゃん大学とはいえ、偏差値は決して低くない。だから死ぬ気で勉強して、何とか合格を勝ち取ったのだった。
桜咲き入学すると、私立大学ということもあり、部活やサークルが星の数ほどあった。
高校時代サッカー部に所属していた六は、楽しくボールを蹴りたい、と活動日が週に一回のフットサルサークルに入会した。そしてサークル同期として仲良くなったのが翔で、光輝はその幼馴染だった。
偉そうなアルファ。
それが光輝の第一印象だったが、いざ話してみると同じ映画が好きだったり、ラーメンが好きだったりと意外に気が合った。最初のころは必ず翔を交えて遊んでいたふたりの関係も、時が経つうち、ふたりきりになることが増えていた。
六は女性が好きだったから、光輝と恋愛関係に発展する気など毛頭なかった。
というより、考えたことすらなかった。光輝と六は友達。それ以上でも以下でもない。
だが、友人の垣根を先に踏み越えたのは光輝の方だった。
それは、ふたりだけで出かけた回数も片手では数えられなくなった、茹だるような夏の日のこと。
六と光輝は大きな公園で催された野外シネマに来ていた。
『六、お前は他のベータと違う匂いがする』
『えっ、そうなの? へえ~、オレ匂いするんだ』
無邪気に身体を嗅いでみたはいいけれど、汗の匂いくらいしかしなかった。
やっぱりベータだからわかんないや。
そう笑いかけると、光輝はどこか悲しそうな笑顔を見せた。
どうした。六が訊こうとしたその時には、視界いっぱいに光輝の端正な顔が広がっていた。
公園にはアクション場面の効果音とクマゼミの大合唱が響いているはずなのに、何の音も聴こえなかった。それが初めてのキスだった。
その日以降、光輝から毎日「好きだ、付き合え」と告白されたが、六はベータの女性と付き合いたかったので、毎度丁重にお断りしていた。
それに光輝が過去、複数人のオメガと関係を持っていたことを知っている。しかも線が細くて綺麗な、いかにもオメガらしいオメガばかりと。だから光輝が六を好きだなんて、信じられなかった。
どうせアルファの気まぐれだ、すぐに飽きる。
そう思っていたのに、光輝は六を口説き始めて一年が経過しても、決して諦めなかった。
オメガ泣かせと言われた光輝がベータの男を追いかけている、と大学で有名になるくらいには、飽きもせず六に告白し続けた。取り巻きのオメガたちとの関係を断ってまで、六を追いかける光輝の想いが本気なのは、六が一番知っていた。
――結局、六は絆されてしまったのだ。
アルファとベータが付き合ってうまくいくわけがない。そんなこと、分かり切っていたのに。
けれど、自分たちは例外だと思っていた。だって、今朝まで自他ともに認める、仲睦まじいパートナーだったのだから。
休みの日は一緒に料理を作り、光輝に抱き締められながら好きな映画を見る。たまに喧嘩もしたが、どちらかが甘いものを買ってくれば、すぐ仲直りした。
それが六の日常で、かけがえのない時間だった。
――でも、そんなささやかな幸せは、もう戻らない。
運命の番が現れた光輝にとって六は、「邪魔」でしかないのだから。
「光輝……みつきっ……! オレは、お前を愛しているのに、どうして――!」
六の嗚咽は聴いていられないほど悲愴で、翔はどう声を掛けていいか分からず、ただ優しく肩を抱きしめることしかできなかった。
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