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20 少年時代
話は二十七年前――千冬が十六歳の高校二年生だったころまで遡る。
梅雨も明けんとする七月の上旬。ひどく蒸し暑く、立っているだけで肌がべたつくような夏日のことだった。
「忘れ物は無いな……。よし、千冬、鍵!」
「研、僕は鍵じゃないよ」
「いちいち細けえな、お前は俺のお母さんか!」
肩を叩かれ、千冬は「やめてよ」と笑いながら鍵を渡した。
当時ふたりは中高一貫の男子校の生徒で、剣道部に所属していた。
研が部長で千冬が副部長。二十七年後は千冬が社長で研が専務で立場が逆転しているのだが、「アルファが社長やってる方がやり易いだろ」と言い出した研に従っただけ、という裏話があった。
千冬は少年時代から温厚で、アルファに多い人を押し退けてまで前に出る性格では無かった。それなら現在の千冬と大した差ではないのだけれど、十六歳の千冬には四十三歳の千冬と大きく違う点がふたつあった。
ひとつは、笑顔。多感な年頃の千冬は、柔らかな物腰でありながらも笑顔を作るのがとても下手だった。
心から笑っているならともかく、愛想笑いをすれば「怖い」と言われる始末。だからいつもツンとした澄まし顔で、冷たそうな印象を受ける少年だった。
そのころの千冬は、一切の疑問を持つことなく「オメガと結婚する未来」を描いていた。長谷川グループの子会社を継いだアルファの兄と姉もオメガと結婚していたから、そうなることが自然とさえ思っていたのだ。
とりわけロマンチストな少年だった千冬は、「運命の番」に憧れ、いつか出逢える日を夢見ていた。
そう、これがもうひとつの大きな違い。十六歳の千冬は「ヒート酔い」などしなかった。
二十七年経っても千冬を縛り続ける、あの出来事までは――。
千冬は汗を吸って重たくなった道着と竹刀を持って、学校からの帰り道を歩いていた。
景観保護がなされた旧家が立ち並ぶ屋敷街に、千冬の生まれ育った邸宅はあった。高い建物が無く、木陰も少ないため通りは暑く、歩いているだけで汗が噴き出してくる。
長谷川家は旧財閥系の長谷川グループを経営する名家だ。銀行、百貨店、保険、造船……ありとあらゆる分野に長谷川の名前があり、千冬は幼いころから長谷川を継ぐ者のひとりとして帝王学を叩き込まれた。
当主である父親は多忙でほとんど家におらず、年の離れた兄と姉も結婚して家を出ていたが、オメガの母親と千冬を「坊ちゃん」と慕ってくれるベータの使用人からの愛情を一身に受けてまっすぐ育っていたのだった。
千冬は優秀なアルファで、未来を約束されている。
誰もが思っていたし、口には出さないものの、千冬だってその未来を疑ったことなどなかった。
――だが、運命は非常に残酷だった。
仰々しく出迎えられるのが嫌で、千冬はいつも邸宅の裏口から帰宅する。その日も例外ではなく、裏口から入るため回り道をしていた。
角を曲がれば邸宅の裏口だ。
そう思って足を速めた時、くらりとするほど強い薔薇の香りがした。
(ヒートの花臭だ……!)
急激に体温が上昇し、呼吸が荒くなり、抑制剤を飲む暇もないまま瞳孔が開いた。
何度かヒートに遭遇したことはあったが、これほどラットまでのスピードが速かったことなど一度もない。いつもと違う身体に疑問を抱きながらも、千冬は裏口までの道のりを急いだ。
――そして、見つけた。
(僕の、運命の番……)
裏口の前に座り込んだ女性を一目見るなり、本能がそう告げたのだ。
目が合った瞬間、ふたりは引き寄せられるように抱き合って熱い口づけを交わした。
女性も運命の番に逢ったせいで正常な思考を失ってしまったのか、「早く……。早く、抱いて」と熱っぽい声で千冬を誘った。
運命に逆らえるアルファとオメガはいない。千冬は本能に突き動かされ、女性を裏口へ引っ張り込んだ。
気付けば千冬は自室のベッドで女性と交わっていた。
騎乗位で跨る女性を下から突き上げるたび、芳しい薔薇の香りが立ち上る。昔から薔薇が好きだったが、それも運命の番の匂いだったからなのだろう。
名も知らない運命の番。アルファとは言え少年である千冬の腕の中に納まってしまう華奢な身体が、庇護欲を掻き立てる。出逢ったばかりだというのに心から彼女を守りたくて、でも早くうなじを噛んで千冬のものにしまいたくて堪らなかった。
貪りつくすような行為の果て、千冬と女性は絶頂に至った。
達したことですこし理性が戻った千冬は、名前も訊いていなかったと気付き、慌てて彼女の顔を見た。それも、愛おしい者を見る極上の笑顔で。
運命の番だから、彼女も同じ気持ちだろう。そう思っていた。
――そう思っていたのに。彼女の表情は千冬と百八十度違うものだった。
「あ、あ……わたし、なんてことを」
女性の顔は絵の具で塗られたような蒼白になっていた。
「ご、ごめんなさい。いきなり、嫌でしたよね」
その反応を目の当たりにした千冬は、まだ射精を続ける性器を引き抜こうとしたのだが、ラット状態で達してしまったせいで、根元が瘤状に膨らんでおり、上手くいかなかった。
それに表情とは裏腹に、女性の脚が千冬の身体をがっちり挟み込んでおり、離れようにも離れられない。千冬は女性の矛盾した行動に困惑し、怪訝そうな顔をした。
「……そうじゃない、あなたとわたしは運命の番で間違いないわ。でも、でも……。わたし……」
女性の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「婚約者がいるのよ……!」
その告白に、千冬は驚愕で固まった。
彼女は千冬の「運命の番」だ。けれど、千冬のものではなかったのだ。
――でも、彼女を孕ませたい。
千冬の頭の中で、本能が動物のような欲求を叫んだ。
(やめろ、やめろ、やめろ――!)
本能に抗いたくて千冬はぎゅっと目を閉じたが、性器は萎えず、最後まで射精を続けた。
女性も自分の罪を受け止めるように、ただ、じっと耐えていた。
数分経ってアルファ特有の長い射精が終わり、ようやく性器が引き抜けるほどに萎えた。
だが千冬が腰を引いた矢先、また彼女から薔薇の匂いが漂い始めた。
「……どうして」
彼女の絶望にも似たつぶやきを皮切りに、ふたりは再び夢中で腰を振った。いけないと思うのに、千冬の身体は言うことを聞かず、女性をベッドへ押し倒し、後背位で彼女の身体を揺さぶった。
美しい背中を辿ればうなじがあり、このまま噛んでしまいたかった。
(……それだけは、ダメだ)
なけなしの理性が、待ったをかけた。
千冬はベッドに投げ出した剣道の道着入れを開け、中に入っていた面手拭いを取り出し、自分の口にねじ込んだ。すえた防具と汗の臭いが口内を通って鼻腔に広がり、胃から何かせり上がってくる。激しい吐き気にえづきながらも、千冬は律動を止められなかった。
(こんなに苦しいのに……。僕は、まるで獣だ)
衝動を止められない自分が情けなく惨めで、千冬はいっそこのまま殺して欲しい、と思った。
――数時間後。ようやく千冬と運命の番の女性は性交を終えた。
それも騒動を聞きつけた使用人に呼び出された千冬の父親と兄がふたりを引き離したからで、止められなければまだ交わっていただろう。
何度も膣内で射精こそしていたが、排卵を促すうなじ噛みの行為をしていなかったのと、アフターピルのお陰で妊娠には至らなかった。
後日、女性は問題なく婚約者と番ったそうだ。
千冬は父親と兄に「よく噛まなかった」と褒められたが、本能に突き動かされた自分が「汚らわしい」としか思えず、初めてアルファに生まれたことを嫌悪した。
それ以来、千冬は花臭を嗅ぐと防具と汗の臭いを思い出して酔う体質になり、女性さえ受け付けなくなった。
両親や兄姉はヒート酔いする千冬を腫物のように扱い、アルファなのにオメガと番えない上、子も残せないなんて「かわいそうだ」と言った。
千冬自身は何も変わらない。ただ、ヒートが効かなくなっただけ。
それなのに、まるで千冬が千冬でなくなったかのように接する家族が、息苦しくて堪らなかった。
そんな時、千冬に変わらず接してくれたのはベータの使用人や、ベータの友人たちだった。
ベータにはアルファとオメガの契約関係は理解できない。でも、千冬はそれに救われたのだ。
高校を卒業し大学に入ってからは、なおのことベータとばかりつるむようになった。そして大学も卒業し、完全に恋愛対象がベータの男性に移行したころ、千冬はある事実に気が付いた。
それは、人間社会はベータのみで成立するということ。
アルファの家系に生まれ、アルファの思想の中で生きてきた千冬は、こんな体質になるまで「優れたアルファがベータやオメガを先導している」と思い込んでいた。
けれど、第一次産業に従事しているアルファやオメガはほとんどおらずベータが担っていること、人の生死に関わる分野においてはベータの需要が極めて高いことなど、世の中にはベータがいなければ社会が成り立たない事項が多数あった。
アルファより少ないとはいえ、ベータの政治家や経営者も一定数いるのだから、その気になればベータはベータだけで全て賄えてしまう。
だからベータにアルファは必要ない。けれどアルファにはベータが必要なのだ、と。それが、アルファの枠から外れた千冬が出した答え。
――その後、千冬は研と共にベータのための会社を興した。
それも千冬をアルファではなくひとりの人間として扱ってくれた、ベータへの恩を返すため。
ただ、オメガと番えなくなって、ベータの社会で生きていても、千冬はアルファだった。変えようがない事実ではあるものの、ベータ男性と付き合う際、それはかなりの障害となった。
アルファは無意識に支配欲が強い。だから過去の恋人に、千冬の愛し方は「束縛が激しい」だとか「重い」と嫌がられた。それも一度や二度ではない。それこそ、数え切れないほど。千冬はアルファで、どう頑張ってもアルファの愛し方以外、出来ないというのに。
でも、千冬は人を愛したかった。
だからずっと待ち望んでいるのだ。アルファの千冬に愛されてくれる、ただひとりを――。
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