21 愛の花

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21 愛の花

 再びトリンケンの社屋が静寂に包まれた。 「(りく)、幻滅した?」 「……どうしてそう思うの?」  予想していたよりもずっとえぐみの強い話だっが、それを聴いたところで千冬に幻滅するわけがない。   馬鹿にするな、と六は不機嫌なまなざしを送った。その視線を受け止めた千冬は、切なげに笑っている。 「――だって僕も、君が振り回された『運命』に逆らえなかった人間なんだよ」  その自虐めいた言い方に、二十七年経ってなお、千冬の心の中には傷ついた十六歳の千冬が生々しく存在しているのだ、と六は悟った。  平時から努めて優しくあろうとする千冬は、圧倒的弱者であるオメガの女性を本能のまま暴いた過去の自分を赦せないのだろう。  優しさを貫くには信念が必要だ。だから苦しみに縛り付けられても、千冬は二十七年前の出来事を風化させない。胸に痛みを残し続けることで、千冬は他者を慮り、穏やかでいられた。 (――この人の痛みは、いつになったら熟成されるんだろう)  千冬は水底のように深くつめたい孤独の中にいる。それでも他人には高潔なまでの優しさを貫き、可能ならば救おうとまでする千冬を、今すぐにでも抱き締めたいと思った。  絶望の淵に立っていた六に手を差し伸べてくれた千冬を、ひとりにはさせない、と――。 「千冬さんは、ベータにアルファは必要ないって言ったね」 「うん。ずっと思っていることだよ」 「確かに社会だけなら、アルファがいなくても成り立つかもしれない。……でもさ」  六は隣に座る千冬の手を取り、想いを込めてぎゅっと握り締めた。これまで千冬に触れられたことはあっても、六から触れたことは一度もない。  千冬が驚いた顔で六を見た。 「オレには、千冬さんが必要だよ」  掴んだ千冬の手を頬に当て、六は微笑んだ。  千冬の話を聴いてこんな感想を持つのは不謹慎かもしれないけれど、六は嬉しかった。千冬の「運命の番」は、もういない。その事実が――。  ひと回りほど大きい千冬の身体を抱き寄せれば、ベルガモットの香りがした。  一瞬ためらいを見せた千冬だが、覚悟したように息を吸うと、六を強く抱き締めた。  肩に乗せられた千冬の顔はとても熱く、湿り気を帯びている。六はそのことには触れず、千冬の柔らかな髪をゆっくり撫でた。 「……ありがとう、六」 「ううん。こっちこそ、待たせてごめん。……それにさ、千冬さんは『運命に逆らえなかった』って言ったけど、ほんとうに逆らえなかったのなら、相手のうなじを噛んでたんじゃない?」  運命にシナリオがあるのだとしたら、十六歳の千冬が運命の番と結ばれることが正しい筋書きに違いない。運命に逆らったからこそ、千冬は番うこともできなくなり、深い絶望に落とされたのではないだろうか。  今となっては、それも六と千冬が出逢い、結ばれるためには必要な出来事だった。偶然を繰り返して人の出逢いは紡がれ、偶然出逢った者が結ばれれば、必然にだってなり得るのだ。 「――オレ、千冬さんが好きだよ」  柔らかい髪に頬を寄せ、静かに告げた。時間はかかったけれど、ようやく六の想いが形を成した。  本音をいえば、まだ人を愛するのが怖い。心から愛していた光輝(みつき)に裏切られた傷跡は、いつまでも残り続けるだろう。  だけど千冬はオメガを受け付けない。運命の番もいない。  何より、六自身が千冬の隣という特等席を誰にも譲りたくないと思うくらいには、ふたりで過ごした時間に安らぎを覚えていた。 「僕も、愛してる」  千冬がゆっくり顔を上げた。長い睫毛がすこし濡れている。  十五も年上のアルファなのにどうも庇護欲をそそる千冬はずるい。六は愛おし気に目を細めた。  このまま大団円といきたいところだったが、六には話しておかなければならないことがあった。 「……あのさ。ひとつだけ守って欲しいことがあるんだ」 「うん」 「――絶対に、オレを裏切らないで」  受けた傷を抱えながら生きる覚悟は出来ているが、これ以上傷つきたいわけじゃない。もし千冬にまで裏切られたりしたら、次こそは悲しみに唆されるだろう。 「絶対に裏切らない。命を懸けたっていいよ」  千冬がいつになく強い口調で断言すれば、六の藍色の瞳が揺れた。 「千冬さんが好きだ。嘘じゃないんだ。……でも、どうしても、アルファを信じられない。こんなオレでも、ほんとうに裏切らない――?」  ひとすじの涙が、六の頬を伝った。  気丈に振舞い続けていたが、ずっと不安で押しつぶされそうだった。  アルファが信じられないのは個人の問題で、千冬の愛情に疑う余地などないと知っていたのに、どうしても応えられなかった。不誠実な真似をしていると解っていたから、いつか千冬に見限られると思っていた。  でも、千冬は六を諦めなかった。だから六も本音を話した。たとえ失望されようとも、伝えなければならない、と。 「僕は絶対に裏切らないよ、六」  言い聞かせるような千冬の言葉に、六の瞳からもうひと粒涙が零れた。 「……うちの母親もオレを妊娠した時に、アルファの恋人から棄てられたんだ」  いきなり知らされた生い立ちに、千冬は息を呑んだ。 「しかも『ベータとは結婚できないけど産んでもいいよ』って言われたんだってさ。……笑っちゃうよな、アルファだからって人の命まで左右できると思ってんのかな」  乾いた笑いを漏らす六が痛々しくて見ていられず、千冬は六の身体をより強く抱き締めた。 「光輝だって、それを知っていて結婚したはずなのに、簡単にオレを棄てたんだ。……オレって何? 望まれずに生まれて、母親の人生も狂わせて、愛してるって言った人間には裏切られて……」  父親への憎悪を皮切りに、ずっと渦巻いていた不満や恨みが、次から次へと口を衝いて出た。  このままではいけない――。  千冬は半ば無理矢理に、六と目を合わせた。 「僕は君を守りたい。この言葉だけじゃ、不安かな?」  不安でいっぱいの顔をしている癖に、六は首を横に振った。  愛し愛されたい、と心が叫んでいても、素直に愛の言葉を受け取れない。そんな不器用な六を、千冬は愛で包んで満たしてやりたいと思った。 「僕に残された人生の全てを、君にあげる。だから六の残りの人生も、僕にくれないか」  もう一度、藍色の瞳が揺れた。  アルファを信じられない六に、そんなことを言ってくれるとは思っていなかったから。 (千冬さんなら、信じられる――?)  すこし考えてから、六は静かに頷き、千冬の首へそっと腕を回した。 「オレの人生で良ければ……」  そのまま背伸びして、千冬の唇に熱を押し当てた。  ――これが六の精一杯だった。  みっともない姿を見せても、千冬は変わらず愛してくれる、と信じようとする六の心は届いただろうか。    キスは実に拙いものだったが、千冬の胸は多幸感で満たされていた。  愛に振り回され、もがいた六が一歩踏み出してくれた。それも、千冬の元へ。愛することに飢えた千冬が、ようやく六を全力で愛しても許される権利を手に入れたのだ。  至高の笑みをうかべると、千冬は六の顎をすくい、より深くキスをした。これまでと違い、六も拒否したりせず、されるがまま千冬のキスを享受している。  初めての時も思ったが、千冬のキスはあまい。  舌を絡ませただけなのに、しばらく使われていない後孔の最奥が疼いてしまい、うっかり瞳がとろけてしまった。 「――続きはまた家で、ね?」  素直になった六があまりにもかわいらしくて押し倒してしまいそうになったが、ここはオフィスだ、と理性を総動員して踏みとどまった。  頭を撫でながらそう言われた六は、しおらしく小さな声で「うん」と返事をした。  気を取り直し、千冬はすっかり茶葉が開ききったガラスポットを手に取った。  お茶を注げば、優美な花の香りがふたりを包んだ。  千冬が淹れたのはジャスミンティーの工芸茶。ポットいっぱいに開いた茶葉の上には、鮮やかな桃色の花が、二輪咲いていた。
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