23 ベータの六

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23 ベータの六

 (りく)千冬(ちふゆ)が結ばれた翌日の金曜日。  あまりに声が枯れてしまったため、急ぎの仕事もないからと、六は溜まっている有給を使って仕事を休んだ。  それに六にも、平日の休みでしておきたいことがあったのだ。  地下鉄と私鉄を乗り換えて四十分。駅を出て南へ数百メートルで目的地だ。  ここは六の本籍地。つまり光輝(みつき)の本籍地でもある。そう、六は戸籍の確認をするため、某市へやってきた。    住民票を動かしてないせいで、離婚届受理証明書を郵送してもらうことはできない。だから面倒とは思いながらも、足を延ばして本籍地の市役所まで戸籍謄本を確認しに来たのだった。  千冬と結ばれたからには身の上を綺麗にしておかなければならない。大企業ではないものの名の知れた通販サイトを運営する千冬に、迷惑が掛かるようなことがあったら困る。  どう考えても、最後の電話で話した光輝の様子はおかしかった。翔から聞いた話もそうだが、棄てたはずの六へ異様な執着を見せている。  だから、離婚届が提出されていない可能性も大いにある。そう睨んでいたのだ。 「こちら、藤原様の戸籍謄本でございます。お会計は四百五十円です」  会計を済ませ、職員から戸籍謄本を受け取った六は、急いで市役所内のベンチに座り、合格発表でも見るような気持ちで戸籍謄本に目をやった。  ――予想通りというべきか。  そこには「離婚」も「除籍」も記載がなかった。 「あの野郎……」  六の口から悪態が漏れる。やはり、光輝は離婚届を提出していなかった。 (これじゃ、オレが不貞を働いているみたいじゃねえか……)  それなら荷物を取りに行くついでにぶん殴ってやる。  気が立った六は、感情のまま光輝へメッセージを送った。 『明日の午前中に荷物を取りに行く。首洗って待ってろ』 『わかった』  ちょうどスマートフォンを見ていたのか、光輝からすぐに返信がきた。これだけで苛立ってしまうのだから、六の心が光輝に戻るなど、誓ってあり得ない。  それを光輝は分かっているのだろうか。  ほんのひと月前まで誰よりも近かった光輝が理解できず、六は深くため息をついた。    *** 「――だから、明日ちょっと光輝のマンションに行ってくる」 「分かった。気を付けてね」  六が作った牡蠣の土手鍋を菜箸でよそいながら、千冬が頷いた。 「で、ちょっとお願いなんだけど……」  あまり食欲が湧かず、ちまちま食べていた六の箸が止まった。  そしてちらりと虚空へ視線をやってから、言い辛そうに口を開いた。 「……明日、マンションまで一緒に来てくれないかな。どうも光輝の様子が気になって。……だめ?」  情けない頼みだと分かっているが、六は御影の一件でアルファには力で敵わない、と思い知っていた。 「それで六が安心するなら、僕は構わないよ」  千冬がにっこり笑ってみせた。いつもの朗らかな笑顔に、わずかに存在した緊張が解れていく。  千冬が近くにいてくれるなら安心だ。  心から安堵した六は、ようやく牡蠣の出汁が染みた鍋を堪能できたのだった。  翌朝、用意を済ませた六がリビングに入ると、スーツを着込んだ千冬が待っていた。 「……何でスーツ着てるの?」 「もしものために、と思って気合を入れてみました。ほら、『スーツは男の戦闘服』っていうじゃない」 「千冬さんって、案外おじさん臭いこと言うんだね」 「僕は紛うことなき、おじさんだよ?」  確かに年齢だけで言えば、お兄さんではないだろう。  千冬は六の知る四十代前半男性の中で群を抜いて若く、どうも「おじさん」という単語がしっくりこなかった。 (いや、(けん)さんも若々しいけど。……ふたりが特別なだけだよ)  思ったものの、六のためにわざわざスーツを着てくれたのだから、それ以上の言及はやめておいた。    *** 「あ、来客用の駐車場はそこ」  ふたりは千冬の車に乗り、かつて六が住んでいたタワーマンションまでやって来た。下から見上げてもてっぺんが見えないほど高いマンションは、まるで魔王城のようだ。 「これ、カードキーね。かざしたら開くタイプ。エントランスを抜けたらラウンジがあるから、そこで待ってて。オレは光輝に開けてもらうから」  万が一を考え、千冬とは別々に動く算段になっていた。    今日で絶対に終わらせる。六は深呼吸をし、車から出た。  ――六。  意気込んだところで名を呼ばれ、運転の千冬の元へ回った。 「冷静にね。何かあったら、すぐ連絡すること」  千冬は頭に血が昇ると冷静さを欠く六に釘を刺し、車窓から身を乗り出して六の頭を撫でた。 「うん。一時間経っても連絡がなかったら、部屋まで迎えに来てくれる?」  六は千冬を信頼している。だからこそ、一刻も早く光輝との関係を清算したかった。 「千冬さん」  唐突に千冬のネクタイを引っ張り、唇を奪った。  予測もできない六の行動に、千冬は目を丸くしている。しばらく千冬の唇を食んでから、軽いリップ音を立てて唇を離した。 「よっし、充電完了! じゃ、行ってくる」  意気揚々とその場を後にした六を見送りながら、千冬は照れと恥ずかしさで、くすぐったそうに笑った。  ――自動扉をくぐれば、ここは六の戦場だ。  久しぶりに入った高級ホテルのようなエントランスは居心地が悪く、ここは自分の住む場所ではなくなったんだな、とやけに冷めた感情を抱いた。  部屋番号を入力し大きく息を吸った六は、覚悟を決め、呼び出しボタンをプッシュした。 『はい』 「六だ。開けろ」  返事はなく、しばらくしてから自動扉が開いた。乗り込んだエレベーターの中での時間は、永遠と錯覚しそうなほど長いものだった。  ミュゲの香りのルームフレグランス。黒とシルバーで統一されたアーバンスタイルなインテリア。何もかもが懐かしく感じる部屋は、変わらず整頓されていた。  荒れた部屋を見せられたなら、すこしくらいはかわいく思えたかもしれないが、光輝にそれを求めても無駄だろう。六は光輝が部屋を整えておかなければ落ち着かない性分だと知っている。もう終わったとはいえ、共に暮らした五年間で、誰よりも光輝を理解しているのは自分だと自負していた。  だが、あの日から光輝の考えがまるで分からなくなった。  六がいなくても変わらない日常を過ごせるのなら、なぜ最後の願いさえ聞き入れてくれないのだろう。光輝への不信感は募るばかりだった。 「――お前、どういうつもりだ」  とっとと話を終わらせて、千冬の元へ帰ろう。六は単刀直入に切り出した。 「何のことだ?」 「しらばっくれんな! 何で離婚届を出してないんだよ!?」 「……出て行けとは言ったが、離婚するとは一言も言ってない」  悪びれるそぶりも見せず、屁理屈のようなことを言ってのけた光輝に、六の怒りが沸騰する。 「はあ? 運命の番を選んでおいて、都合のいいこと言ってんじゃねえ!」  六は衝動的に光輝の胸倉を掴んだ。 「違う! 俺が選んだのはお前だけだ!」  この期に及んで、まだそんな言い訳をする光輝が許せなかった。  これだけ六の人生を振り回しておいて、まだ「愛してる」とでも言うつもりなのか、と。 「何が違うって? オレ、あの時言ったよな。『たとえ本能に言わされたことだとしても、一度口から出た言葉は覆らない』って!」  真正面から険しい顔の六に睨みつけられ、光輝は所在なげに目を逸らした。 「――いっそのこと、ベータに生まれれば良かった」 「……何だと?」 「ベータに生まれれば、一生お前と生きられた。……でも、頭の中で『お前じゃない』って声がするんだ」  絞り出した光輝の声は、底の知れない暗さがあり、まるで本能に飲み込まれた己を責めるようだった。  「運命の番」さえ、現れなければ――。 「……本能がオレじゃないって言ってんなら、それが真実だろ」  まがりなりにも八年を共にした相手に縋られてしまったら、うっかり同情してしまいそうな六がいた。  愛することもできないのに絆されてしまえば、生き地獄を味わうのは一目瞭然だろう。それに六の心は千冬に渡してしまったから、光輝を想う容量は残っていなかった。 「早く離婚届にサインしてくれ。オレが役所に持っていく」  用件だけ伝えると、光輝の胸倉から手を離し、背を向けた。  弱気な光輝など見たくなかったし、ここに来て動揺などしたくなかったのだ。 「お前、首……」 「首?」  光輝からどこか抗議じみた声が上がり、六は訝しげに首筋へ手をやった。 (――ああ。千冬さんの噛み跡だ)  それは千冬から与えられた、光輝が決してつけなかった、アルファのものだという証だった。 「……ッ! お前は、ベータの六だろう!」  後ろから掴みかかられ、六は反射的にその手を打った。 「だから? そんなこと、お前には関係ない!」 「――お前は、オメガの代替品じゃない!!」  突然、光輝が広い部屋を揺らすほどの大声を出した。 「何を、言って……」  六はオメガの代替品じゃない。そんなこと、言われなくても解っている。  だがその言葉を耳にした途端、これまで光輝に抱いていた疑問点が線として繋がった。  愛してると言いながら、前戯をせず義務のようにこなされるセックス。どこか切ない笑顔。  アルファはオメガとのみ番う。これは揺るがない事実だが、光輝はベータの六を愛してしまった。  ゆえに光輝は、誰よりも六がベータであることに囚われていたのではないのか。 「……ば、馬鹿じゃねえの」 「誰が馬鹿だ!」 「お前だよ、馬鹿光輝。オレはオメガの代替品じゃない、そんなもん当たり前だ。でも、オレが『オメガみたいに扱われるのが嫌』なんて、一言でも言ったか? ……ポリシーか何か知らねえけど、オレはオメガみたいに抱かれたとしても嫌じゃなかったよ」  オメガのように扱われたとしても、目の前の六をただひとりの六として愛してくれさえすれば、文句は言わなかっただろう。 「何だよ、それ……」  ならばこれまでの愛し方は間違っていたのか、と思い知らされた光輝は顔を覆い、うなだれた。  過去の光輝の愛情は、非常に独善的だった。誰もそんなものを求めていなかったのに、光輝ひとりが『ベータの六』を愛そうとしていたのだ。   光輝はすっかり気落ちした様子で座り込んだ。  六はまるでなぐさめるかのように、光輝の肩へ手を置き――とんでもないことを言った。 「反省したか? なら、一発殴らせろ」  会ってしまったらタダでは済ませられないから、電話で終わりを告げたというのに。  離婚するからといって、光輝の行動を水に流したわけではない。むしろ怒りが凝縮されたと言っても過言ではなかった。 「……好きにしろ」  既に抵抗する気力もない。  反撃されないのならこれ幸い、と六は再び光輝の胸倉を掴み、大きく振りかぶった。  ――そして、いまにも殴ろうとしたその時。 「ちょっ、ちょっと待って! 暴力はいけないよ!」  大きな音を立ててリビングの扉が開き、丁度いいタイミングで乱入してきた千冬に腕と腰を掴まれ、光輝への制裁を阻止されてしまった。  しかしよく考えてみれば、両腕を掴まれているのに、腰にも腕が回っていた。  ――ということは、乱入者はふたりいる。  状況が把握できず、六は腕を掴む千冬の顔を確認してから、腰にしがみつく人物の顔を見た。 「六にい、ダメ……! 光輝くんを殴らないで……!」 「――紫乃(しの)!? どうしてここに……」 「……みんな落ち着いて。一旦、冷静になろう」  年長者の千冬が乱れた場を収め、関係性の分からない四人が一堂に会することとなった――。
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