25 広い部屋に奇妙なふたり

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25 広い部屋に奇妙なふたり

 (りく)紫乃(しの)が出て行った広い部屋は、痛いほど静かだった。  千冬(ちふゆ)は場に似つかわしくない穏やかな面持ちで微笑んでいるが、光輝(みつき)は自分の部屋でありながら居心地悪そうに俯いている。  しばらく沈黙の中で息を押し殺していたが光輝が、どうも耐えられなくなったらしい。覚悟したように深呼吸した後、話を切り出した。 「長谷川さんは、俺を殴りに来たんじゃないんですか」 「僕が六を誑かして、って殴られるなら分かるけど。どうして僕が君を殴る必要があるの」  唐突な質問に、千冬は目を丸くした。 「……六を棄てて傷つけた男だから、です」 「案外殊勝なことを言うんだね。むしろ六を手放してくれてありがとう、って感謝してもいいくらいだけど」  そもそも光輝が六を棄てなければ、千冬は六と出逢わなかったのだから、光輝に小言を言うつもりなど欠片もない。確かに光輝が傷つけてくれたおかげで、六と想いが通じるまでかなりの時間を要した。でもそれを加味したところで、千冬が光輝に暴力を働いていい理由には足り得ないだろう。 「光輝くんは僕に殴られたかったの?」 「いえ、そんなことは……」  無いとは言い切れない光輝がいた。千冬はそんな光輝にふ、と笑ってみせた。 「君は誰かに罰されたいんだね」 「――どうして」  わかるんですか、と、光輝の唇が動いた。 「わかるよ。……きっと、誰よりも。僕も『運命』に翻弄された身だから」  千冬も『運命』の名のもとに、婚約者のいる女性の身体を暴いた。  互いが本能に突き動かされた結果だとしても、いっそ殺して欲しい、と思った遣り切れなさは生涯忘れない。 「ただね。六の言う通り、君の自罰に紫乃くんを巻き込む必要はあったのかな」  穏やかな口調だった。  千冬にとって、紫乃は親友の忘れ形見。幼いころに親を喪い、しなくてもいい苦労をしてきた紫乃には幸せになって欲しいと心から願っている。ついこの間、好きな人が出来たと報告されたところで、初恋の君を語る紫乃はとても嬉しそうだった。  まさか、その相手が六を棄てた光輝だとは想像もつかなかったが――。 「……俺に紫乃を愛する資格があるとは思えません」 「何故?」 「――何故? そんなの、一生幸せにすると誓った人間を不幸にした、それ以外に理由がありますか。長谷川さんだって、俺に紫乃を任せたくないでしょう」  元々光輝は真面目な男だ。曲がったことが大嫌いで、人に流されず正義を貫ける。本来はそこが長所なのだ。  ただ、いまは長所が反転して短所となり、歪みを生んでいた。  六に出て行けと言ったのも――運命の熱に浮かされたせいもあるが、他の人間に心を奪われた状態で六と一緒にいられなかった。そして自分が間違っていたと気付いたから、謝罪した。どの行為も六を苦しめたが、光輝の中では筋が通っていたのだ。  だとしても六や、今回巻き込まれた紫乃にとっては、光輝の正義は自分勝手極まりないものだ。  特に紫乃にとっては、光輝の理屈は理不尽でしかない。  ――この青年はとても不器用なのだ、と千冬は思った。 「紫乃くんが君を好きと言うのなら、僕は止めないよ」  紫乃の親代わりとして、怒りを覚えるべきなのかもしれない。恐らくもうひとりの親代わりである研は、烈火の如く怒るだろう。  でも、千冬はアルファで、運命の番と出逢ったふたりが抗えない力で惹かれ合ってしまうことを知っている。だから光輝を責める気にならなかった。それに紫乃はヒートが来ていないから猶予もある。勿論、運命の番と逢ってしまったことで状況が変わることも大いに考えられるから、注視しておかなければならないが、それでも事を急ぐ必要はないと考えていた。 「……紫乃だって本能で俺に惹かれている。もし番として結ばれてしまったら、あいつは俺と違って後戻りできないんですよ」  これが、光輝の本音だった。  番契約の「契約」とは名ばかりで、アルファには制約がない、オメガだけが囚われてしまうもの。  もし運命が煽った本能の欲望が消えてしまったら、オメガである紫乃にとっては取り返しのつかないことになる。 「君は優しいけれど、優しさの使い方が下手だね」 「優しい? 俺が?」  優しいなど、六と紫乃のどちらも大切に出来ず、身勝手な理由で関係を終わらせようとした自分から一番遠い言葉だと、光輝は思った。 「優しいのは長谷川さんでは? ……あなたは、俺を救おうとしてるでしょう」 「やっぱり、気付いた?」 「……あなたは六と似ています」  六は他人のために行動することを厭わない。たとえ己が不利になる状況でも他人を優先してしまうくらいの、度が過ぎたお人好し。良くも悪くも感情に素直で、いつでも真っ直ぐ前を見据える六を愛していたのだ。  そんな六と今の千冬に、光輝は近しいものを感じていた。  六と紫乃の関係者なのだから、千冬が光輝を救う義理は無いし、光輝も千冬に救われようなどとは考えていない。  ただ、千冬個人がどうしても光輝を放っておけなかったのだ。 「六は君の幸せを願っているよ」 「……はい」  ――運命の番は手放すなよ。  それが、光輝を愛した六の最後の言葉。  光輝だって、ほんとうは解っている。六は愛した相手の不幸を願うような人間では無いということを。 「それにね。君が幸せになってくれれば、紫乃くんも幸せになれるから」  千冬は「こっちが本命」と笑った。 「本気で俺に紫乃を任せるつもりですか」  正気じゃないとでも言いたげに、光輝は眉間に皺を寄せた。 「うん。光輝くんの事を話している紫乃くん、とても幸せそうだったから」 「幸せ、ですか」  運命の番と認識していないものの、紫乃は光輝を見つけ出して恋をした。  紫乃の想いは、紫乃だけが主導権を持っていて、光輝が一方的に終わらせられるものではない。 「それにね、一度間違った人間は、次はもっと慎重になる。……光輝くん、どうか紫乃くんを大切にしてあげて」  千冬が言いたいことはそれだけだった。 「あとはね、光輝くんはあの子の初恋なんだよ。君のことを儚げな美人だと言っていた。……ふふ」  こらえきれず、千冬が噴き出した。 「だから女性じゃなくて、びっくりしたよ」 「俺が、儚げな美人……? ははっ」  さもおかしげに笑う千冬につられ、光輝の口からも笑いが漏れた。  そのままふたりは笑いのツボに入ってしまい、数分前までの重苦しい空気など忘れたかのように、声を上げて笑った。  *** 「――誰にも言うつもりは無かったのに、どうして初対面のあなたに本音を話してしまったんだろう」 「そんなの簡単だよ。僕は、六のすべてを受け止めるって約束したから。その中には、君への愛情も入ってるんだよ」  不思議そうな光輝に、千冬は爬虫類に似た瞳を細め、いたずらっぽく微笑んでみせた。 (――この人なら、六を甘えさせることだってできるだろう)  俺にはできなかったけれど、どうか、六を幸せにしてやってください。  祈りにも似た思いを込め、光輝は微笑み返した。
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