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26 浮上
六は走った。逃げるように部屋を出て行った紫乃を捕まえるために。何を話せばいいのか分からない。でも、探さずにはいられなかった。
――紫乃をひとりにしてはいけない。第六感がそう訴えていたから。
息が上がってくる。十二月だというのに、六の額にはうっすら汗が滲んでいた。
「紫乃!」
マンション内にある中庭に差し掛かったところで、ようやく紫乃の姿を捉えた。
「……六にい」
「辛かったな、泣いていい」
有無を言わさず、紫乃を抱き締めた。
驚いた紫乃が胸の中ですこし暴れたので、落ち着かせようと優しく頭を撫でれば、紫乃は身体を硬直させたあと静かに泣き始めた。
「ごめん、なさい。ほんとうに、辛いのは、六にいなのに……」
「大丈夫、大丈夫だ。お前は悪くない」
はらわたが煮えくり返りそうだった。
勿論紫乃に、ではない。「運命の番を見つけた」と六を棄てたくせに、運命の番である紫乃さえも大切に出来ない光輝に、だ。
「……勝手に決められてムカつくよな。あいつ、ああいうところがあるんだよ」
(どうせオレを棄てた自分に幸せになる権利は無い、とか余計なこと考えてんだろ)
長い付き合いだから、光輝の考えそうなことくらいわかる。
俺様が服を着て歩いているような性分の癖に、変なところ真面目で融通が利かない。
それが光輝という男だ。六はそんな光輝の不器用さをよく知っているし、嫌というほど理解していた。
「紫乃が嫌いとか、そういうわけじゃないと思う」
何でオレが光輝のフォローをしてやらないといけないんだ。六は内心毒づいた。
「……六にいは、知ってるんでしょ?」
「ん?」
「おれの生みの親が、アルファの父親に棄てられて自殺した、って」
「――うん」
「……光輝くんがしたのは、それと同じことだよね」
泣いたせいなのか、怒りからなのか、紫乃の声は震えていた。
「運命の番は、番うことが絶対の幸せなのかな。運命の番なら、ひどい人間でも好きでいないといけないのかな……」
「……」
ついさっき『お前にはお前の幸せがある』と言った六だったが、その問いの答えは持ち合わせていなかった。
紫乃が光輝と番うこと。もしくは光輝と番わず生きること。どちらが紫乃の幸せなのか、ベータである六が考えても判らない。
「ごめん、嫌な訊き方して。おれはオメガだけど、オメガの自覚がないから……」
「それは……ヒートが来ていないから?」
「たぶんね。だから光輝くんの話を聞いて、ひどい人だなってがっかりした」
紫乃は運命の熱に浮かされていない。自分勝手な理屈で六と紫乃を振り回した光輝に、失望してもおかしくないだろう。
「――ひどくてずるくて、自分ばっかり傷ついたような顔してて、何でこんな人好きになったのかな、って思った」
「仕方ねえよ、あいつが悪いんだから」
紫乃の歯に衣着せぬ物言いに、うっかり噴き出してしまいそうになる。
「でも……」
紫乃が不安げに顔を上げた。
「おれ、どうしても、光輝くんを嫌いになれないんだ……」
瞳には涙が浮かんでいた。紫乃自身が、その感情に戸惑いを隠せないのだ。
前述のとおり、紫乃にはオメガの自覚が無い。ヒートも来ていないから、運命の番さえ分からない。
だから光輝を嫌悪しても不自然ではないのに、紫乃は「最低だ」と光輝を切り捨てることができなかった。
「オレとお前じゃ立場が違うんだから、無理に光輝を嫌いにならなくていいんじゃないか?」
「……六にい、優しすぎるよ」
おれが六にいの立場だったら絶対に赦せない、と紫乃は続けた。
「――別に光輝を赦しちゃいねえよ」
紫乃にはいつも穏やかな兄のように接する六の声が、ワントーン下がった。だが、紫乃は怯むことなく、まっすぐに六を見た。
恐らく六が光輝の裏切りを赦せる日は、一生来ない。
それこそ、あの日千冬に出逢わなければ、紫乃の父親と同じ轍を踏んだかもしれないのだ。
「でもな、愛していたからこそ、あいつには幸せになって欲しいと思ってる」
「そんなの……!」
綺麗ごとだ、と言いたげな紫乃の髪をかき混ぜ、六は歯を見せて笑った。
「オレさ、格好つけなんだ。光輝にも、お前にも、いい顔したいだけなんだよ」
紫乃は依然として納得できなさそうだったが、六が言い切ってしまったので反論もできず、むっつりと黙り込んだ。
「なあ、紫乃。これだけは約束して欲しい」
「……何?」
真剣な六の声に、紫乃は身構えた。
「紫乃がどうしても光輝じゃないとダメだと思った時、オレを理由に躊躇したりしないでくれ」
「……六にいの、馬鹿」
「そうだな、馬鹿かもな」
「……馬鹿! 大馬鹿! お人好し!」
「最後のやつは褒めてないか?」
昂った紫乃の瞳から、また涙が溢れる。六は馬鹿、馬鹿と抗議する紫乃を抱き締め、可笑しそうに笑った。
外は寒く、六の笑った息が白い湯気になって空に昇ってゆく。
きっと、光輝の相手が紫乃でなければ、ここまで丸く収める気にはならなかった。
光輝と運命の番がどうなろうと、六の知ったことではない。けれど、運命の相手が紫乃なら話が違う。
六には、慕ってくれる青年を地獄に叩き落す趣味など無かった。
――それに。
「不幸のどん底にい続けるのも、楽じゃねえんだよな」
光輝に棄てられた時、六は世界で一番不幸な気さえした。もう誰も信じられない。一生人を愛せないと思った。
でも、六は千冬と出逢った。六が愛せなくても、千冬が六を愛してくれた。愛で空いた穴は、愛で埋めるしかない、と教えてくれた。
千冬は六を裏切らない。裏切らない、と、信じさせてくれたから。
「オレは、千冬さんと幸せを築くよ」
前を向いて生きるのならば、いつまでも不幸に浸っていられない。
光輝の不幸が六の幸せではない。また、六の幸せが光輝の不幸でもないのだから。
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