最終話 お茶の時間

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最終話 お茶の時間

 「ん~……」  午前六時半。(りく)はキングサイズのベッドの上で目を覚ました。   固まった身体を解そうと、伸びをしながら起き上がってみたものの、腰回りとうなじの違和感は拭えなかった。  それは昨夜の情事の名残。いつまで経っても薄れない千冬の愛情表現に、甘酸っぱいようなくすぐったいように気分にさせられる。  違和感があっても、このくらいどうってことない。六は自分に言い聞かせ、ベッドから立ち上がり、洗面所へ向かった。  身支度を済ませリビングへ入ると、千冬(ちふゆ)が朝食を用意して待っていた。 「おはよう!」 「おはよう。身体は平気?」 「まあね。オレのことをすっごく愛してる人がいるらしくて……」 「それは大変」  大げさに腰を摩りながら着席する六にくすくす笑った千冬は、大ぶりな英国製のティーポットから揃いのマグカップへクリスマスフレーバーの紅茶を注いだ。  ――六が離婚して早三年。今日はふたりが出逢って三度目になるクリスマスだ。  例の話し合い以後、六は一度も光輝(みつき)と会っていない。  片や千冬は紫乃(しの)のこともあり、あれから光輝と交流を持っている。  元パートナーと現恋人が親しくしているのもおかしな話だろうが、光輝を目の届くところに置いておきたい千冬の気持ちも理解できるので、その件について口を出すつもりはなかった。 「今日は最終出勤日だし、昼で上がれるから」 「うん。トリンケンで待ってるね」  六はいつにも増してにこにこしている千冬へ微笑みかけ、キャロットラペと軽く焦がしたベーコンを挟んだイングリッシュマフィンに齧り付いた。 「おはようございまーす」 「相田(あいだ)くん、おはよー」 「はよっす」  二年前、六は七年勤めた杣商会を退職した。  現在は同業他社の〈ミワシステムズ〉の営業として勤務している。  ――事の起こりは、離婚して半年が経ったころ。  諸々の手続きを経て六は藤原(ふじわら)姓から相田姓へ戻ったのだが、職場では変わらず藤原を使用していた。だから六の離婚を知るのは、社長含む上層部と、口座を取り扱う総務の人間だけ。 「離婚した」などわざわざ触れ回ることでもないし、名前を変えるのも面倒だし、このまま藤原で通そう。  そう簡単に思っていた。だが、離婚にまつわる騒動で消耗した六の心は、光輝と別れてもなお「藤原」と呼ばれ続ける日々に、すっかり疲れてしまったのだ。  加えて数年で営業部に戻る前提で総務部へ異動したはずが、総務部の人手が足りないせいでいつまでも営業部へ戻してもらえず、仕事でもフラストレーションが溜まっていた。  そんな折、ミワシステムズで働く大学の先輩――最上(もがみ)から声を掛けられた。  ミワシステムズは業界老舗の杣商会とは違い、創業十三年の若い企業だ。  刷新的な社風が有名で、業界内でも屈指の「変人の巣窟」だと噂されている。現に仕事は出来るが個性的で職人気質なエンジニアが多く、メイン商材である情報システムは質の良いものを提供出来る割に、営業が希薄なせいでコンペに弱かった。  そこで営業部の補充に乗り出し、少しでも業界に慣れている人間を探して東奔西走していた時、最上が偶然にも同業他社で働いていた六を思い出して、駄目元で連絡した。それが全ての始まり。  六が面接を受けてからは、あれよあれよと話が進み――現在に至るのであった。 「相田くん、今日はどんな連絡があっても帰っていいからねー。俺が何とかしとくしー」  間延びした話し方のこの男性は、五人しかいない営業部の部長・矢口(やぐち)。アルファながら偉ぶらない闊達な性格の持ち主で、こう見えてクロージング率八割の超やり手営業マンなのだ。 「あー……気を使わせて済みません」 「そこはねー、ありがとうって言うところだよー?」 「そうですね。ありがとうございます!」 「俺もフォローするし、何かあったら言えよ!」  矢口からちょっとしたお叱りを貰ったところで、様子を窺っていた最上がデスクのモニター脇からひょっこり顔を出した。 「最上さんも、ありがとうございます」 「今日だけだからな~」 「最上くん、そんな意地悪言っちゃダメだよー」  きしし、と笑う最上に注意する矢口は、まるで教師のようだ。 「はーい、ごめんなさい!」  素直に謝る最上もまた、生徒のようだった。  たった五人しかいない営業部だが、持ちつ持たれつのバランスがいいこのチームを、六はとても好いている。ミワシステムズに転職するまで、緊急時以外に仕事のフォローをしてもらうなど、考えたことすら無かった。  一方、ここは助け合いが当たり前。入社当時、甘え下手な六にとって、人に頼らなければならない環境がストレスですらあったというのに。  ――それも過去のこと。  人は変わっていく。六だって、例外ではないのだ。  杞憂していたトラブルの電話は鳴らず、無事仕事を収め、挨拶もそこそこにオフィスを出た。  外は雪がちらついているが、千冬に贈られたコートのお陰で少しも寒くなかった。  ミワシステムズからトリンケンは目と鼻の先。通りをふたつ過ぎればすぐ、見慣れた建物が見えた。  早く千冬に会いたい。  逸る気持ちを抑えながらトリンケンへ向かえば、目的地の前にスーツで身を固めた千冬が立っていた。 「お疲れ様! 寒いんだから、中で待っててくれたらよかったのに」 「六もお疲れ様。……どうしても待ちきれなくて」 「ほんと、千冬さんってオレのこと好きだね」 「うん。大好きだよ、六」  オレも、大好き。六は千冬の首に腕を回し、少し背伸びをして視線を合わせた。  途端、トリンケンの小洒落たガラス戸が開いた。 「ちょっと、会社の前でいちゃつかないでもらえる~?」 「ごめんごめん。中には研しかいないと思って、気が緩んじゃった」 「研さん、今日だけは許して」 「他でもない六のお願いだから、聞いてやりたいけど……ダメ! とっとと行け!」  研の追い払う手の動きに促され、六と千冬は歩き出す。  数メートル進んだところで、研の大きな声が六の鼓膜を震わせた。 「六、千冬をよろしくな!」 「――はい!」  振り返った六は研に手を振り、千冬の手を握って、そのまま高く掲げてみせた。  そして勢いよく腕を振り下ろし、ダンスでも踊るような足取りで、ふたりは先を急いだ。  ――着いた先は市役所。  今日はふたりが出逢って三年目の、十二月二十四日。  そして今年から、十二月二十四日はふたりの結婚記念日になった。 「……これで、六はもう『長谷川六』になったの?」 「うん。案外、あっさりしてるよね」  話し合いを重ね、六と千冬は結婚へ至った。  とはいえ随分前から同棲しているし、六も職場では相田のまま通すので、目に見えて変わるものは、銀行口座や免許証等の名前くらいだ。  付き合いだした当初、六は一度痛い目を見たこともあって、結婚という形にこだわらなくてもいい気がしていた。  特にそう思ったのは、光輝と別れてから一年ほど経ち、千冬を連れて実家へ帰省した日のこと。母親は歓迎してくれたものの、顔には「またアルファか」と書いてあった。  無理もない。自身と息子がアルファの男性に裏切られたというのに、アルファを信頼する方が難しいだろう。  戸籍で繋がらなくても、愛し合うことは出来る。現に六と千冬は婚姻関係にならなくても、仲睦まじく過ごしていた。  だから千冬も同じ気持ちだと思い込んでいた。だが、千冬の意見は六と全く逆だったのだ。  ***  遡るは一年前。六と千冬はダイニングテーブルを挟み、ふたりの今後を話していた。 『僕は六と結婚したい』 『どうして? やっぱり千冬さんも、オレが自分のモノだって言う証明が欲しい?』  アルファは独占欲と支配欲が強い傾向にあるから、そんなことを言うのだろうか。  ちっともアルファらしくないが、どうしたって千冬はアルファで、その事実は揺るがない。 『ううん、そうじゃないんだ。……今の法律では戸籍を一緒にしない限り、君にほとんど遺産を渡せないから――』  遺産。その言葉を聞いて、幸せ一色だった六の頭に、黒い靄がかかった。  千冬は六より十五も年上だ。自然の摂理で言えば、千冬が先に亡くなる可能性の方がずっと高い。  いつか、その日はやって来る。分かっているが、まだ考えたくなかった。 『……オレ、お金は……』  いらない、と言えるほど財産があるわけではない。でも、それ目当てで千冬と結婚したと思われたくもない。 『結局、僕が死んでしまったら、お金と物しか遺らないでしょう』 『そんなこと……!』 『抱き締めてあげることもできない。話を聞くこともできない。君に何かあっても、助けても、守ってもあげられない……』  千冬の顔からは、いつもの笑みが消えていた。  たかが十五年、されど十五年。流れてしまった時間は、どうあがいたって埋まらない。先に生きた十五年で、六よりずっと多くを見聞きした千冬だから、どうしても譲れなかった。 『お金があれば僕がいなくなった後も、最低限の生活は守ってあげられる』  千冬はダイニングテーブルの上に置かれた、六の手を握った。  遺言書や生前贈与では、かなりの制限がかかる。特に長谷川家の次男であり、企業を経営している千冬の財産は莫大で、配偶者の場合と配偶者でない場合では、受け取れる金額にとんでもない差が出てしまうのだ。  遅かれ早かれ、別れは必ずやってくる。  もし、千冬が想像より早く亡くなってしまったら。そのせいで六が失意に暮れて、いつも通りの生活さえ営めなくなってしまったら――。  つまり結婚はひとつの保険だ。千冬は死してなお、どんな形でもいいから六を助けたかった。 『お願い、僕に君を守らせて。お願い、六……』 『千冬さん……』  千冬の瞳には強い光が籠っていた。  握られた手が熱い。六の胸は、言い表せない感情でいっぱいになっていた。  六は千冬を愛していて、千冬も六を愛している。互いが互いを大切にしたくて、守りたくて。傷ついた過去を背負い、共に生きていくと誓ったのだった。  六にだって言い分はある。だが、千冬亡き後の六を心配する意志を退けるほど、強い信念ではなかった。   ならば六が折れるしかない。 『――分かった。なら、オレからもひとつだけ、お願い』 『うん』 『一年だけ、待って。……オレも、長谷川家の名前を背負う覚悟を決めるから』  事実がどうであれ、千冬と結婚してしまえば、六は藤原商事から長谷川コーポレーションの御曹司に乗り換えた、金持ちアルファ好きのベータだと思われるだろう。  いくら同性だと言え、配偶者ともなれば、顔を出さなければならない場も増える。だから、何を言われてもびくともしない自信が欲しかったのだ。  その翌日から一年間、六は必死で勉強した。語学、経済、マナー、株価、グルメ……思いつく限りの分野を学び、仕事もこれまでよりずっと熱心にこなした。  そして約束の一年が経ち、努力を重ね、千冬と並んでも恥をかかせないスキルレベルに達した六は、ようやく入籍を決意した。  これなら胸を張って長谷川家の一員になれる。千冬の想いを、受け止められる、と――。   *** 「さあ、帰ろうか」  千冬が曲げた腕を六に差し出した。 「うん。寒いから、あったかいものが飲みたいな」  六は差し出された腕を組み、身体を密着させた。 「なら、チャイにしようか。スパイスをたっぷり利かせて、蜂蜜も入れて」 「あ~おいしそう! オレ、千冬さんのお茶があれば生きていけるわ……」 「お茶だけ?」 「まさか。オレの『愛する千冬さん』が淹れてくれるお茶があれば、生きていけるって意味!」 「そうだよね。僕の愛する六――」  街中だというのに、千冬が人目を憚らずキスをした。 「ちょ、ちょっと、公衆の面前で……!」  恥ずかしさで顔が真っ赤になった六は、千冬の頭を掴み、羞恥を誤魔化すように、きちんとセットされた千冬の髪をぐしゃぐしゃにした。 「やめてよ、六」 「やめない!」  ぐしゃぐしゃにされながらも楽しそうで、ちっとも堪えない千冬につられ、六まで笑えてしまった。 「ほら、帰るよ!」  寒いんだから。と、再び腕を組み、家路を急いだ。  あちこちから流れるクリスマスソングに合わせるかのように、街路樹のイルミネーションが瞬いている。いつもなら無機質に感じるLEDの光も、今夜ばかりは星の祝福のようだった。  木枯らしに晒された身体はすっかり冷えきっていた。  だから早く帰って、温かい部屋で甘くて苦くて辛い特製のチャイを飲もう。  ふたりのこれからでも、ゆっくり話しながら――。   
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