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3 心配しないで
あれから一時間は泣いただろうか。
六の目は腫れぼったく、熱を持っている。泣きすぎて頭が痛い。
ぼんやりした意識の中で、六はプライドを守るため、光輝に縋り、泣きわめけなかったことを悔いていた。
(べつに光輝がオレを必要としてなくてもいい。でも最後にせめて、オレは光輝を愛してるって伝えるべきだった)
後悔先に立たずとはこのことだ。
付き合い始めて八年。結婚して五年。どちらかの想いが離れてしまえば、その年月もただの数字でしかない。
これまでの蜜月がまやかしのようで、馬鹿馬鹿しくなった六は乾いた笑いをこぼした。
「りっくん、大丈夫……?」
「ああ。……ごめんな、翔。こんな時間に呼び出して、怒ったり泣いたりして」
いつものりっくんだ。翔はほっとして呟いた。
「大将も、ありがとうございました。折角の金晩なのに、オレのせいで貸し切りにしちゃって申し訳ないです。また人連れて飲みに来ますんで」
「いいって、気にすんな。お前が楽しそうに笑ってないと調子狂うから、今度はいつもの六で来てくれな」
からから笑い、六の髪をぐしゃぐしゃにした五十過ぎの大将は、同じ歳くらいの娘がいるらしく、六を息子のようにかわいがってくれている。六もまた、大将を父親のように慕っていた。だから悲しみの末、足がここへ向かってしまったのだ。
「あと、タクシー呼んでもらっていいですか? 翔を瑞希ちゃんに返さないと」
「えっ!? いい! いいって! 今日は朝まで一緒にいるって! 帰る処も無いのにどうすんの!」
「お前、明日も仕事だろ? それなのに来てくれてありがとな。俺はどこかのホテルでも入って寝るから、心配すんな。大将、タクシー呼んでください」
「いいって言ってるのに! どうしてそんなに帰したがるの!?」
帰りたいと嘆いていたことも忘れ、翔は六の肩を揺さぶって抗議したのだが、六は意思を曲げず、半ば強引にタクシーを呼んでもらったのだった。
抵抗むなしくタクシーの後部座席に乗せられ、翔はとても不満そうにしている。
けれど冷静になった六が、これ以上迷惑を掛けたがるわけがない、としぶしぶ自分を納得させた。
「……りっくん。俺水曜日休みだから、次は火曜日の夜に会おうね」
「ん、どうした? お前も忙しいだろ。心配してくれるのはありがたいけど、もう平気だって」
「俺が会いたいの。……だって、りっくんは約束を絶対に守るでしょ」
それだけ言い、翔はタクシーの運転手に行き先を告げた。
すべりだしたタクシーの車窓越しに視線をやった翔の瞳は心配の色が濃く、六は苦笑してしまった。
(オレ、そんな死にそうな顔してたのか……)
呼びつけたのは六だから奢ると言ったのに、勘定はすべて翔が持ってくれ、その優しさがやけに身に染みた。
さあ、行こう。
六は大きく息を吐き、必需品の入った大ぶりなデイパックを背負うと、再び夜の街へ足を踏み出した。
けばけばしいネオンが強い光を生み、この街の本質である深い陰を浮かび上がらせている。
寂寞たる夜の街を歩いていると、晩秋の冷たい風が強烈なビル風となって、六に襲い掛かった。
どこでもいいから、早くホテルを見つけて温まらないと。トレンチコートの前を閉めてみたが、凍えてしまいそうなくらい、今夜は冷えた。
ネオン街を通り過ぎれば、いくつかホテルがある。
頭の中の地図を頼りに歩いていた六だが、あまりの寒さで段々早足になっていった。あと今日ばかりは、『アルファ専用オメガ専門店』だとか『運命の番ごっこできます。βなので噛んでも安心!』などという、いかがわしい看板を視界に入れたくなかったのだ。
もうすぐ、ネオン街の出口に辿り着く。
――その時、ふと薔薇の花のような匂いがした。
普段からにぎにぎしい街だが、今宵はいつにも増して騒がしい。
何かあったのだろうか。
視線を彷徨わせて喧噪の元を探せば、緑色の横線の入った救急車が見えた。
(オメガ専用の救急車だ。ヒートかな)
オメガは命の危機に晒されたとき、生存本能がヒートを引き起こす。それが判明していなかったひと昔前、救急隊員にアルファを配置していたことで、患者のうなじを噛んで殺してしまうという事件が起きた。以来、オメガ枠の採用が実現され、またベータの採用枠も大幅に増やされ、オメガとベータしか乗車できない、オメガ患者専用の救急車が配車されたのだった。
オメガなら光輝に棄てられなかったかもしれない。
そんなことを考えた日に限って、こういうものを見てしまうんだから、ついていない。
六は口の中で小さくひとりごちた。
だがオメガに生まれていれば、と思う一方、ベータでよかった、と思う六もいた。なぜなら、オメガに生まれていたら、光輝にうなじを噛まれていたに違いないのだ。
うなじを噛まれたのに、運命の番を選ばれたとしたら、光輝が死ぬまで発情期を耐え続ける生き地獄を味わう羽目になっただろう。
だから、六はベータに生まれて良かった。オメガに生まれようが、光輝の運命の番は他にいるのだから。
それにしても、ヒート特有の花臭がすごい。まるで薔薇園にでもいるような、むせ返るほどの臭いだった。
ベータの六にでも分かるくらいなのだから、アルファやオメガは堪ったものじゃないだろう。
現に街を歩くアルファやオメガらしき人々が、鞄やポケットから抑制剤を取り出して飲んでいるのが散見された。アルファとオメガは常に抑制剤を持ち歩くことを義務付けられているから、こういったとき、万が一に備えて抑制剤を飲むのだ。
ちょうど前を歩いている四十くらいの男性も、胸ポケットに手を入れて抑制剤を探しているようだった。
六より頭ひとつ分は背が高く、身体のラインに沿った仕立ての良いスーツにアルスターコート、ぴかぴかに磨かれたブルーチャーを履いているので、恐らくアルファだろう。
男性は慌てた様子でしばらくがさがさやっていたが、ようやく抑制剤を見つけたようで、胸ポケットから手を出した。
――瞬間、男性の身体がぐらり、と大きく揺れた。
危ない! 叫ぶよりも先に身体が動いていた。
「大丈夫ですか!?」
とっさに後ろから支えた男性は顔が真っ青になっており、荒い息を吐き、少し酒の臭いもした。
アルファがヒートにあてられたにしても、こんな反応は見たことがない。お人好しの六は心配になった。
「ヒートにやられましたか? その抑制剤を飲ませますから、口を開けてください」
ひと声掛けてから男性の手の中の抑制剤を奪い、小さく開いた口に抑制剤をねじ込んだ。
そのまま男性を支えるため前方へ移動し、六の肩に男性の頭を乗せた。
「う……」
「落ち着きそうですか? 救急車呼びます?」
「……いや、気持ち、悪い……だけ、だから……大丈夫。ありがとう……」
男性はゆっくり頭を上げ、弱々しく目を細めた。
目尻の下がった優しい笑顔がアルファらしくなくて、六はこういうアルファもいるんだな、と思った。
男性は六から離れたあと、たどたどしい足取りで歩きだしたのだが、歩道の段差につまずいたり、人にぶつかられてよろけたりと、ハラハラして見ていられなかった。
だから六は深く考えず、「送っていきます」と申し出てしまったのだ。
この男性との出逢いが、六の人生を大きく動かすことも知らずに――。
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